オレンジの派手な表紙の本のおかげ
大学の推薦入試を受けたのは12月のはじめだった。
文学部哲学科インド哲学専攻の推薦入試を受験することになった。
当時、私が受験した大学は「専攻」まで決めて受験する、そういうシステムだった。
高校の進路指導の先生は初めての「インド哲学専攻」受験の生徒に対しての試験対策を持っておらず、手探りでの試験対策が始まった。
先生は、本当に「インド哲学専攻」でよいのかと何度も尋ね、
「お前は体力がないが、山寺とかに修行に行かされたら大丈夫なのか?」
と心配してくれた。
(そんな修行に行くことなどもちろんなかったが、それほど情報がなかったのだろう)
ちなみにこの進路指導の先生は、どの学校に一人はいるであろう「エッキス」と発音する数学のH先生だった。
面接を想定しての練習が始まった。
H先生:インド哲学を志望した動機は?
私:インドに行きたいからです。
H先生:それじゃダメだ!
インドに行きたいからインド哲学に行くんだ!
どうしてダメなんだ!
当時、私はオレンジ色の派手な表紙の「河童が覗いたインド」(妹尾河童著)というインド旅行記の本がとてもとてもお気に入りで、それを何度も何度も読んで、インドへの憧れを強くしていた。
だけど、H先生はそんな志望動機では合格しないと言う。
そこで、H先生と私は志望動機を考え始めた。
当時、脳死や臓器移植について議論がされていた時期だった。
脳・心臓・肺の機能がすべて停止した時を死としていたものを、脳の損傷が回復不可能な状態にある時を死とする。
私も、当時話題になった立花隆著の「脳死」を読んで、「人間の死とは」ということを考えていた。
というか、考えたこともあった、という方が正しいかも。
というわけで、
「今社会で問題になっている脳死問題に興味を持ち、『人間とは?』ということについて考えるようになりました。哲学を学ぶことで疑問の答えに近づけるのではないかと思い、インド哲学を志望しました」
という、なんとも立派な志望動機を作り上げたのだった。
インターネットのない時代、地図と時刻表でルートを調べ、るるぶで見つけたホテルを予約した。
試験の前日。
同じ大学を受験する友達と2人でフェリーに乗り、松山観光港から広島港へ。
そして、路面電車に乗り、並木通り近くのホテルに到着した。
まだ明るい時間だったので、大学を下見し、そして徒歩で行けるらしい平和記念公園に行ってみた。
2人で広い公園を気持ちよく歩き、原爆ドームを見て、広島平和記念資料館へ入った。
・・・。
なんてことだ。
受験前日に入るところではなかった。
広島平和記念資料館について何も知識がなく、気軽な気持ちで入ってしまった。
資料館を出た後、心に刺さった衝撃はどうしようもなく、罪滅ぼしの様に飴の包み紙で折った小さな鶴を千羽鶴の山のそばに置き、言葉少なに2人でホテルまで歩いて帰った。
そして、翌日、試験が始まった。
1日目は小論文だった。
まだ大学が千田町にあった頃のことを知っている人は、あの古い大学構内を思い浮かべてほしい。
正門から入ってまっすぐ歩き、突き当りを右に曲がった最後の建物が文学部だった。
比較的広い教室が小論文の試験会場だった。
教室には賢そうな受験生たちが沢山いた。
たぶん、インド哲学以外の西洋哲学や中国哲学、倫理学の受験生も一緒だったのだろう。
ほとんどの受験生が、「小論文の書き方」のような参考書を開き、最後までチェックに余念がない。
そんな中、私は、あのオレンジの派手な表紙の本を開いた。
「今盛り上げるべきは、どうしてもインドに行きたいという自分の気持ちじゃないのか!」と思ったから。
(そもそも「小論文の書き方」のような参考書を持ってなかった)
小論文の問題は英語で出題された。
A3かB4用紙の左右2面に書かれている英文を読み、それについて自分の考えを書く。
英文を読み始めたのだが、前半が全く読めない。
びっくりするほど、何が書いてあるのか、英語が分からない。
仕方なく前半はあきらめ、読めた後半だけを元に回答を書き始めた。
後半はこのような内容だった。
小学校の写生大会。
校庭の隅にある一本の木をみんなで見に行った。
その場で絵を描くのではなく、教室に戻り、自分が見た木をそれぞれに描く。
そうすると、同じ木を見たはずなのに、まったく違う絵が出来上がった。
そこで私は、
ものの存在は、自分の知覚したものと必ずしも一致しない。
ミミズには目がないから見ることはできないが、ミミズにとって見えないからといって、存在しないということではないのだ。
よって人間が五感で感じるものが存在する全てとは言えない。
存在が認識できなくとも存在するものもある。
自分の見えたものと同じように他人が見ているということも言えないのだ。
こんなことを書いた気がする。
なんだか哲学科の受験っぽいぞと思いつつも、問題文の半分が読めなかったショックは大きかった。
これがショックその①。
これが始まりだった。
試験2日目は面接だった。
ここで初めてインド哲学専攻の受験生が10人いることが分かった。
そして、合格するのは1人。
狭き門というより、そもそも門は開いてんのか?
文学部の建物の2階の隅にある面接を待機する部屋は狭く、壁は本で埋め尽くされ、年季の入った飴色の茶色い木造の色と、古い洋書の煮詰めたようなくすんだ色と匂いばかりだった。
面接の順番を待つ間、助手の先生が本を見せてくれた。
見たこともない、宇宙人が書いたような、どちらが上なのかも分からない曲線の文字が書かれていた。
サンスクリット語というらしい。
へ~とを眺めていると、一人の生徒が、
「これは〇〇という種類の言語ですか?」
というような質問をした。
専門用語っぽい単語を口にして、助手の先生もそれに意味不明な単語で答えている!
なんで、なんでそんなこと知ってるの!
これが、ショックその②。
順調に面接は進んでいるようで、一人ずつ生徒が呼ばれて部屋を出ていく。
その時、一人の生徒が「トイレに行ってもいいですか?」と尋ねた。
「いいですよ、場所分かりますか?」と助手の先生が言ったところ、その生徒は「知っています。夏休みに来ましたから。」と答えた。
なに!
すでに研究室を訪ねてきているって、なんなの、それ!
そして、ショックその③。
もう合格するなんてありえないだろう。
単にインドに行きたい程度じゃダメなんだ。
H先生は正しかったのだ。
オレンジの本なんて役に立たないのだ。
そうして、私の面接の順番が来た。
隣の、これまた本ばかりの部屋に入ると、教授と助教授が二人座っていた。
私はその向かいに座り、面接が始まった。
「志望動機は何ですか?」
きたぞ、うんうん、しっかりと準備してきましたよ。
私は脳死問題うんぬんと志望動機を述べた。
述べたと思う。述べたんじゃないかな。
もうはっきりとは覚えていない。
その他に高校生活について、部活の事やマラソン大会が辛かったことを話したような記憶がある。
そんな中で、インドに行きたいということについても話したのだろう。
面接の最後に、教授に「本当の志望動機はインドに行きたいからなんですね」というようなことを言われた。
あぁ、最初に述べた志望動機が嘘だったことがバレてる…。
あぁ、絶望の、ショックその④。
・・・。
もう、合格することなんてないだろう。
ショック①~④が全て出そろったヤツに合格なんて出るわけない。
ふとした思いつきで受験を決めたようなヤツに門は開いてないのだ。
皆、強い思いをもって、入念に準備してきたのだ。
オレンジのインド旅行記を読むばかりの、付け焼刃なヤツはダメなのだ。
すっかり落胆し、フェリーに乗って松山に帰った。
帰ってからは、もう推薦入試はあきらめ、一般入試で合格するしか道はないと、必死で勉強をした。
オレンジの本を本棚にしまい、必死で勉強した。
一週間後。
合格発表の日。
もちろんインターネットで発表が見られるなんて時代ではない。
面接の時にサンスクリットの本を見せてくれた助手の先生と大学時代に影絵サークルで一緒だった私の高校の先生のところに、合否通知を知らせる電話がかかってきた。
(そういう先生がいること、先に教えておいて欲しかった)
結果は、合格だった。
喜びよりも、何故という気持ちが先だった。
なぜ?どうして?
10人中1人なのに、しかもショック①~④のダメポイントが大量に加算されたのに?
さっぱり分からなかったが、合格したことはとてもうれしかった。
なぜか分からないけど、合格だった。
こうして、私の大学受験は終わった。
試験から帰ってきてから合格発表までの一週間が、一番必死で勉強した期間だった。
新年度4月、晴れて文学部哲学科インド哲学専攻に入学した。
あの、面接待機した部屋にも、再び入った。
同級生は6人。
全員女の子だった。
皆に尋ねたところ、誰も推薦入試を受けた人はいなかった。
ちょっと安堵した。
3年か4年生になった時、先生にどうして私が合格したのかを聞いてみたことがあった。
先生は「お前が一番何も知らなさそうだったからじゃないか?」と言った。
ウソかホントかは分からない。
哲学科に入って分かったことは、哲学科ですることは自分が哲学者になり哲学することではない。
先人の哲学者が書いた文献をひたすら読み、分析・研究をする研究者になるということだった。
自分自身の人生や存在に思い悩んだところで、それと研究は別の物。
純粋に学問として哲学を学ぶ。
そういう意味で、単にインドに興味を持っている程度の軽い気持ちがよかったのかもしれない。
それもこれも、オレンジの派手な表紙の本のおかげだった。
一時は恨んでごめんなさい。
そうして4年間インド哲学専攻に所属し、インド論理学の卒論を書いて、無事に卒業した。
卒業後、インド哲学自体に触れることはないし、学んだサンスクリット語も役立つことはないが、いろんな場面で私の人生を助けてくれている。
就職や転職の際、履歴書に「インド哲学専攻」と書くことで興味を持ってくれて採用されたこともあったし、私よりも多くの経験と技術がある人たちが沢山断られ続けていたプロジェクトにインド哲学の話をしたことで採用されたこともあった。
(IT関連だったので、理由は不明だけど)
サンスクリットに比べたら動作が確認できるプログラミング言語は明快だし、格が8つあって性が3つあるサンスクリットは気が狂っていると思う。
自分の狭い想像力では及ばない歴史や思想や習慣が存在することも、二十歳前後に学べたことはとても意味があったと思う。
知っていることが一つもない状態からインド哲学の勉強を始めたことは、これからもずっと役に立つ体験になるだろう。
そして、大いなる先人の大学の先生たちにとっても、いつまで勉強を続けてもすべてを知ることができない学問の広さや深さを知ることができたことは、大切な教訓だ。
それでも、日々研究を続けている人たちは、これまでの先人の研究を受け継ぎ、少しでも先に進めて、次世代に途切れなく渡そうと一生懸命だ。
果たして、私はインドには行っていない。
自己免疫疾患になってしまった今、インドに行くことは、もうないだろう。
私にとってのインドは、大学の4年間が一番近かったのかもしれないな。
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