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初めての草

2018年3月、秘密結社老犬倶楽部天国支部へ異動となったぴっちゃんは、その18年前の2000年秋、生後半年(推定)で我が家へやってきた。

その少し前、近所に住む女の子の後を追い、コンビニ袋をくわえたまま隣町から歩いてきたそうだ。もともと野良犬だったのか、どこかの家から脱走したのかは不明。当時、私は東京在住。「犬に興味のない人には犬が見えない法則」で我が家の両親にもその子犬には気づいていなかった。

我が家の近辺に落ち着いたのだが、何しろ人が怖いため田植え前の広い田んぼの真ん中にいつもいて、どこからも手の届かない安全な場所を陣取っていた。「犬好きには犬が見える法則」で、その子犬を発見した近所のYさんが毎日ご飯をあげていた。そして、「犬には犬好きの優しい人が分かる法則」で、子犬はYさんだけに懐いた。

ただ、ずっと野良犬状態のままでいるわけにいかない。そこでYさんは母に「かわいい子犬がいるんだけど飼わない?」と尋ねた。元来犬好きな母はその子を一目で気に入った。さらに犬をそれまで一度も飼ったことのなかった父の了承も得た。そうと決まれば早いもので、Yさんが子犬を捕獲しているうちに、リードやら首輪やら犬小屋やらを揃えるためにホームセンターへ駆けつけた。

一応の犬用住居スペースが軒下に完成。ついに犬未体験の父と子犬、ご対面の時。子犬は、放浪時代のトラウマか大人の男性がとても苦手だったが、頭と耳と腰としっぽを下げて震えながら、「ここで生きていかなくちゃ」と小さな体で必死に覚悟を決めていた。一方、犬初体験の父はどうやって触れてよいものか分からず、子犬の頭の上をちょいっと手のひらで触った。それが初日だった。

それから一週間後、東京の私のところに届いた写真がこちら。

父と同じく犬未体験の私は、数枚の写真を見ても全然ピンとこなかった。犬。いぬ。噛まれたことがある。祖母の家には絶え間なく犬がいたが、特にかわいがった思い出もない。犬が来たのか、そうか。

犬を飼うという報告とともに、子犬の名前の相談も届いた。「サラ・ヴォーンからのサラか、エラ・フィッツジェラルドからのエラか」と悩み、結果サラと名付けられた。その後、数年で「サラ → サラぴこ → ぴこ → ぴっちゃん」と変化し、サラ・ヴォーンはどっかに行ってしまったが。

数か月後、私は仕事を辞めて東京から実家に戻った。犬がいた。犬は私を特に恐れず、それどころかどうも格下だと思っている様子。朝5時からキャンキャンと散歩を要求する。当時仕事をしていなかった私が朝の散歩係。薄暗い中をぴっちゃんと毎日毎日散歩した。ロングスリーパーの私はもちろん帰ってきて再びたっぷりと寝て、ぴっちゃんは土を掘り、木をかじり、小屋をかじった。そうして少しずつお互いの存在に慣れていった。

しばらくして、初めてぴっちゃんを連れて高知の祖母の家に行った。当時、祖母の家にはエルという大きな雄犬がいた。エルには土佐犬の血が混じっていたようで、気性の粗さが不意に現れる性格の持ち主だった。気に入らないところを触られると本人も気づかない間に人を噛み、「あれ?噛んじゃった?」みたいな。大抵の犬は順位が下、大きな雌犬は敵。男の人も怖くない。そんなエルとぴっちゃんを対面させることに少し不安があった。

しかし、それは一瞬の出来事だった。入口を開けた瞬間、エルがガウガウと突進して来てぴっちゃんを組み伏せ、ぴっちゃんはひっくり返ってお腹を出す。その間、数秒。あっという間に順位決定。まだ成犬じゃなかったからか、少し体が小さめだったからか、単に気に入ってくれたのか、それからエルはぴっちゃんのことを子分のようにかわいがってくれた。エルの小屋のあたりに近寄ると誰もがウ~~~と唸られていたのだが、ぴっちゃんだけは出入り自由。あまりの自由奔放さに人間たちは拍子抜け。思えばぴっちゃんは上に立とうとしない犬だった。子分体質と天真爛漫さ。

その日の夕方、私たちはエルとぴっちゃんを連れて散歩に行った。山間部に位置する祖母の家は、数分歩けば山や川に行くことができる。ぴっちゃんにとっては初めての魅惑の香りがたくさんだったようで、興奮気味にリードを引いた。最初は山道へ!

エルが慣れた様子で道端に生えている草を食べ始めた。シュッと伸びた細長い草だった。それを見たぴっちゃんも目の前にあった草をパクッとくわえた。それは蕗のような丸い葉っぱだったのだが、美味しくなかったようでペッとすぐに吐き出した。引き続き、隣のエルは細長い草をモリモリと食べている。その様子をしばし眺めた後、なるほどと思ったのか、ぴっちゃんも同じ種類の草を食べ始めた。

当時、犬についての私の知識と言えば、「動物のお医者さん」(佐々木倫子作)が全て。漫画の通りに犬の口にはゴムパッキンがついていたし、最初の頃の散歩はぴょんぴょん飛び跳ねて前に進まなかった。その様子を「チョビと同じだ!」と思いつつも、それ以上の知識はなかった。犬が草を食べるなんて知らなかった。

それはぴっちゃんも同じだった。犬とて犬としての全てを知って生まれてくるわけではないのだ。犬が草を食べるなんて、シュッと細長い草を食べるべきだなんて、私たちもぴっちゃんも知らなかった。こうしてこの日、エル先輩に草の食べ方を教えてもらったのだった。

それから二匹は自然のサラダバーを存分に楽しんだ。次は川へ。広い河原でリードを離してやると二匹の姿はあっという間に小さくなる。高い岩の上にも軽々と駆け上り、今までに見たことないスピードで力強く疾走していた。ぴっちゃんは水に入るのはあまり好きではなかったようで、浅瀬に入り、まるで湯船につかるようにちゃぽんと座るだけで泳ぎはしなかった。エル先輩は常にぴっちゃんに目を配り、遠くに行かないように見守ってくれていた。

エル先輩よ、ありがとう。人には教えられない、元来犬も知らないことを教えてくれて。昨年3月に天国支部へ異動になった時、ぴっちゃんはあちらでのいろいろなことを、一足先に天国支部に行っていたエル先輩に教えてもらったはずだ。今頃、二匹揃って天国支部のサラダバーを食して、自由に走り回っているのだろうか。


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