民主主義と多数決、それと批判的志向
多数決。思えば、小さなころから折に触れて、多数決でいろいろなことを決めてきた。これからみんなでする遊び、学級委員、生徒会、文化祭の出し物、食べに行くお店などなど。多数決で決まった人は学級委員長になり、生徒会長になる。
多数決の過程を経ることで、関係者一同がそれぞれどんな意見を持っていようとも、結果を受け入れて従う。多数派になろうが少数派になろうが、私は一票を投じたことを介して決定には関与したことになる。これが多数決の結果を受け入れる根拠だ。この根拠のおかげで、多数決というのは立派に民主的な決め方だと思っていた。
だけど、例えば、多数決で今日の遊びは野球だと決まったとして、サッカーに票を入れた人はそれでも野球をしなければならないのだろうか。多数派になった野球派が「野球をしない人は罰する」と言い出したらどうだろうか。少数派のサッカー派は、それでも従わなければならないのだろうか。
まあ、独裁者ジャイアンの「今日は野球だ!」の一言で、個々の希望は無視、全員で野球をしなければならない状況に比べたら、多数決の決定に従って全員で野球をする方がまだましに見える。
それにしても、多数決の結果に従うべき理由は何だろう。だって、多数決で決まったことが正しいとは限らないのに。多数派・少数派が善・悪や正・誤と一致しているかどうかは別の話だ。
私たちのなんとなく持っている多数決の正当性を「功利主義」から考えてみよう。
「最大多数の最大幸福」という言葉で知られている功利主義は、「物事の善悪を幸福の総量によって決めよう」という考え方だ。功利主義では一人を一人として数え、決して一人以上には数えない。自分や身内を他者より重みづけたり、生まれによって重みが変わったりしない。あらゆる人を「一人」と扱うという点で、功利主義は平等を基礎としている。
ところで、「幸福の総量」ってなに?
功利主義(古典的功利主義)を体系化したジェレミ・ベンサムは快楽・苦痛は量的に勘定できるとして、量的快楽主義を唱えた。一方、ジョン・スチュアート・ミルは快楽・苦痛には量的に勘定できない質があると主張し、質的快楽主義を唱えた。しかし、二人とも、快楽を計算する(効用計算)という方法用いた。
なんと、功利主義において、幸福は計算できるんだって!
効用計算とは、例えばドーナツが10個あって5人の人がいるとしよう。均等に分けると一人2個ずつになる。平等な分け方だが、5人の中には空腹な人と満腹な人、ドーナツが好きな人と嫌いな人がいるとしたらどうだろう。ドーナツを空腹の人に多く、それほどお腹すいていないひとには少なく、嫌いな人には配らないほうが、全員の幸福度は最大になる。このように、ドーナツのやりとりを、実際に数字を用いて幸福度を計算する。計算の結果、どのように分け方けると全員の幸福が最大値になるか可視化できる。これは、功利主義が「行動の動機」よりも「行動の結果」を重要視し、「行動の結果」を誰にもわかる形に示そうとしたことが始まりだ。
この考えは、「トリアージ」として医療現場で採用されている。命に別状のない軽症患者よりも重症患者を優先して手当てを行い、物資や人員の割り当てを「最大数の命が助かること」に最適化する。「トリアージ」とはフランス語で「選択」を意味するそう。大きな事故や災害、大地震などで耳にしたことがあるだろう。現在、新型コロナ患者を診ている医療現場でもトリアージが行われている。
しかし、これまで多数の「○○主義」が唱えられると必ず反論が出てくるように、功利主義も完璧でないことはすでに分かっている。
まず、幸福の総量を最大値にするためならば少しの犠牲は正当化できるのか、というジレンマが出てくる。トロッコ問題でも知られている。99人の幸せのために一人を排除してもよいのか。「トリアージ」もしばしば、「命の選別」というキーワードで注目されることがある。とはいえ、医療現場では治療優先順位のルールが必要だ。重症度順か、先着順か、社会貢献度順か、年齢順か、より多くお金を払った順か。
実際、私は眼科の待合室で、カビキラーのボトルを左手に持って、右手で目を押さえている人を見たことがある。しかも、その人よりも自分が先に診察室に呼ばれたとき、「この人を先に診てあげて!」と思った。まあ目に入ったカビキラーは充分に洗い流されていて、もう大丈夫だったんだろうけど。
功利主義のもう一つの問題点は、「幸福とは何か」を客観的に定義する必要があること。「幸福総量」を計算するために全員共通の基準を設けると、個々の価値観は問題の外になってしまう。つまり、「これが幸福だ」と他人に決められてしまうことになる。毎日ポテチを食べることが幸せな人に、「体に悪いからやめなさい」とポテチを取り上げることが果たして正当化されるのか。この場合の幸福は、ポテトチップスが好きな人にとってのものなのか、周囲にいる人や医療費を負担する社会にとってのものなのか、社会通念上の「健康を幸福」とする考えによるものなのか。倫理学上の答えはない。社会通念上の答えは存在しているように見える。「常識」や「空気」という名前で。
功利主義は、注意深く扱う必要がある。気が付いたら、パターナリズム(父権主義)や権威主義と結びついていたということも多いだろう。「大人になると結婚するべきである」という定義で世間の目に苦労し、「女性は出産子育てをするべきである」という定義で仕事をあきらめ、「一家の主人は充分に稼ぐべきである」という定義で過労になる人もいる。これらのカギ括弧の中が果たして各々の幸福なのか。幸福の判断を他人の手にゆだねると、権威的で独善的な判断を強いられてしまう。自分の外から「こうすると幸福度が上がるよ」という価値観がやってきて、油断するとのまれてしまう。
全てのことにおいて絶対的な幸福は決められないが、一部の組織やシステムでは功利主義が機能していることも事実。ここで重要なのは、一部でうまく働いている考え方を安易に全体へと拡大しないこと。多様化が重要なキーワードになっている現代では、なおのこと。これまでなんとなく「これが幸福だ」と思われていたことは、次々変わりつつある。
先日、貝印が出した広告はその一つだった。カミソリやシェイバーを販売する会社が、「ムダかどうかは、自分で決める」というメッセージを出した。ムダ毛を気にするか気にしないかは、男女問わず、個人で自由に選べばいいという主張だ。日本では当たり前で身だしなみだと思われているムダ毛処理。私自身はアメリカで脇毛を処理しない女性に出会った時から、この当たり前がなくなった。この彼女は、化粧をして髪も整えおしゃれな服を着ていた。ただ自然に脇がそのままだった。彼女も周りもそれを特に問題にもしない。それが彼女だから。それを見て「なんでムダ毛は処理しなきゃいけないんだろう」と、それまでの当たり前を疑問に思ったことを覚えている。この貝印の広告は、近年、社会的に強要されるメイクやヒールからの解放が社会運動として広まっているひとつだろう。
気が付けば、脅迫的な広告が私たちの身の回りにはあふれている。お肌はシミなくシワなくツルツルに、人に好かれる話し方と服装で、自分磨きを怠らず英語を勉強して、エクササイズで体重コントロールできる人になりなさいと。これらを求めている人にポジティブな姿勢で勧めるというよりは、「お肌がガサガサでは嫌われますよ」「英語くらい話せないと笑われますよ」「友達の前で水着着られますか?」という否定的な文脈のことも多い。余計なお世話だ。このような自分の外から押し付けられる「幸福」の違和感に、気づき始めている人も多い。
脱線してしまったが、この功利主義を基本理念とした政治思想が、日本の憲法でも定められている三大原理の一つ、「民主主義(国民主権主義)」だ。ちなみに、他の二つは「平和主義」と「基本的人権の尊重」。私自身は、身近な多数決を相似的に拡大したものを選挙だと思っていた。多数決で議員が決まり、多数決で法案が通ることに疑問を持つことはなかった。
しかし、先に述べたように、多数決の正当性も幸福の定義も確かではないとすると、何をよりどころに選挙や政治が行われるのだろう。
様々ある民主主義の制度の中でも、日本は間接民主制の立場をとっていて、間接民主制で反映できない国民の利害は、国民発案やリコール、住民投票などの直接民主制で補っている。
間接民主主義とは、
「国民が選挙で選んだ代表者に、一定期間自らの権力の行使を信託し、政治を委託することを通じて間接的に政治参加をし、意志の反映実現を図る政治制度で、議会政治がその具体的な形態である」(Wikipedia「間接民主主義」より)
追加で調べてみる。(以下、精選版日本国語大辞典(小学館))
信託:①信用して任せること。
委託:①物事を他人に頼んでやらせること。任せてやってもらうこと。依頼すること。
間接民主制の問題点は、「多数派の原理」に支配されてしまうことだ。過半数多数決の方法をとる選挙の場合、Aさん(51人)対Bさん(49人)で決したならば、その差がわずか二人でもAさんが代表に選ばれる。Aグループが多数派になり、Bグループは少数派になる。はたして少数派になったBグループの意見は尊重されるのか。
一見すると矛盾しているように見える「多数派の原理」と「少数派の権利の擁護」。この二つは矛盾せず、むしろこれこそが民主主義の中心となる二本柱なのだ。多数決の結果は物事を行うための「手段」であり、「多数派の専制」を許すことではない。
どういうこと?
投票の結果、勝ったAさんは代表となるが、Aさんは51人の代表であるだけではない。Aさんは49人の代表でもあり、全員の代表なのだ。49人をいないものとして扱ってはならない。49人の人たちも51人の人たちも、功利主義でいうところの「一人」であり、そこに重いも軽いもない。
そうはいいつつ、Aさんは51人のためだけに働くかもしれない。これが「多数派の専制」。こうなったとき、不利益を被る少数派となった49人は、自分たちの権利が求めてAさんに働きかけることができるのが民主主義だ。
そのために「表現の自由」と「知る権利」が憲法で保障されている。国や政治家など権力を持つ側がメディアや個人の発言を規制・検閲してはならず、思想や言論など心の中にまで立ち入ってはならない。私たちは自分たちの主張のために、必要な情報を自由に得る権利がある。黒塗りの文書や公文書改ざん、公文書破棄、なんなら議事録すらないという現状は、「知る権利」が奪われている状況。
「選挙で選ぶこと」と「選ばれた人のすることを無条件で受け入れること」は全く違うことだ。49人は自分たちを無視していないか、51人はそれを怠っていないかを常に見続ける。51人には選んだ責任がある。その責任は「私たちの選んだ人がすることだから」と成り行きに従うことや、「自分たちに利益誘導されているか」とチェックすることではない。もしも49人を無視することがあったなら、51人も声をあげなければならない。そしてもうひとつ、この選挙に参加した100人以外の人を尊重しているかどうかも、要チェック項目だ。
そうして現状を見てみると、51人に支持された人は「信任を得た」という言葉で49人を無視し、51人のためだけに政治を行っているように見える。そして49人は声を出さず、ひたすらに耐えている。「多数派の専制」が行われている。
ちなみに、「信任」も辞書で引いてみた。
信任:信頼してことを任せること。
「信任」の前提条件は「信頼」なのだ。
しかし、49人の声こそ、未来のために必要なものだ。与えられた条件で精いっぱい頑張ることももちろん大切だが、条件をより良くすることを放棄していないだろうか。今、自分たちが厳しい状況で限界まで頑張っているとして、その状況を次の世代に渡せるだろうか。自分たちの頑張りが、次の世代をさらに苦しめることにつながらないだろうか。
与えられた条件で頑張ることだけを教えられ続けてきた私たちのやり方は、今、行き詰まっているように見える。最低賃金、生活保護費減額、消費税増税。条件内で頑張ることと、条件をより良くすることは両立できるはずだ。
これまでも何度も何度も書いているが、生きることに必死な人は声をあげる余裕すらない。だからといって、この人たちをいないことにしてはいけない。耳をすませば、空耳かもしれないくらいの小さな声や、かすかに指先が動いた音が聞こえるかもしれない。
そしてなにより、声をあげる時に言われがちな、「対案を出せ」「予算はどこから出すのか」「みんな我慢している」という言葉に耳を貸す必要はない。「嫌だ」「やりたくない」「困っている」「つらい」「しんどい」。これだけで検討すべき立派な意見なのだから。予算案など具体的な解決法を考えるのは専門家の仕事。まずは問題があることを知ってもらわなければ、先に進まない。
このような社会問題を話す時、なぜか為政者目線・経営者目線から発言する人を目にする。最低賃金を上げると経営が成り立たないという従業員や、生活保護費をあげる予算はどこから出すのだという市民。見事に自分の立ち位置を棚に上げてしまう。一見、俯瞰で物を見ているようにも見えて、本人は気分がいいのかもしれない。
しかし、なぜ彼らは当事者の立場を放棄して、バーチャル為政者・経営者になってしまうのだろう。
いくつか理由は思い浮かぶ。
ひとつめは、「個人の問題は社会の問題」という共通理解がないから。少ない収入しか得られないのは個人の責任だと、自分も社会も思っている。これは、皆の認識が変わることで解決していくだろうし、実際に少しずつ変わりつつある。
ふたつめは、今、自分が置かれている立場はあくまで通過点だと思っているから。特に若者にとって、今はいつか成功する未来のための仮の姿。これは、過去や未来はさておき、現在を生きている自分も大切にすることで解決できるかもしれない。未来のために今を犠牲にしすぎることが幸福なのか、もう一度問うてみよう。
みっつめ、これは深刻な問題。為政者や経営者の出すメッセージが言葉通りに受け取れないから。私たちは「裏があるんじゃないか」「何か意図があるんじゃないか」と、まず考えてしまう。そもそも何を言っているのか分からない場面も多い。発言の意図を考えるということは、相手の立場に立っていること。私たちは相手の立場に立ちすぎていて、自分の立場を忘れがちになっているのではないか。日本とニュージーランドの首相が共に「国民のために」と言ったとして、どちらとも「国民のために」と素直に受け取れるだろうか。
ともかく、今を生きている当事者性を放棄しないこと。ひいきの野球チームを応援する時は監督目線でもいい。選手起用に文句を言おうが、配球がナンセンスだと愚痴ろうがいい。けれど、私たちはプレーしている選手であり、そこに人生があることをしっかり覚えていなければならない。
ところで、選挙で選ばれて代表となった人は全員の代表者ならば、果たして私たちはそういう人を選んでいるだろうか。「支持してくれた人だけのために働きます」という人を選んではいないだろうか。
もちろん、各業界や様々な属性の代表として立候補することもある。昨年の参議院選挙で当選した舩後さんと木村さんは障害者の代表だ。しかし、彼らは障害者の代表であると同時に国民の代表でもある。障害者の権利を守るために他の権利を無視してはならない。
とはいえ、これらは理想論で、現実には互いの価値観が相いれないことも多い。しかし残念ながら、解決には決まった方程式などない。話し合い、譲歩し、受け入れるといった民主的な過程を繰り返し、解決法をその都度導き出すしかない。功利主義も選挙も、社会をより良くするための「手段」なのだ。これ自体が「目的」ではなく、「手段」なのだ。
いつでも私たちは歴史のただなかにいて、いまだ訪れていない結末を知ることはできない。タイムマシンもまだない。
1945年8月6日、広島に原爆が落とされ、3日後には長崎、15日に終戦を迎えることを今の私たちは知っている。しかし、原爆が落とされた直後の広島市民は、これからどうなるのか、二つ目の新型爆弾がまた落とされるのではないかと、不安しかなかったはずだ。結果を知っている私たちは、もう原爆は広島に落ちないし、あと9日後に戦争が終わることを含めて見てしまう。
終わってから見える景色と、その最中にいる景色は違う。ここにも当事者性が潜んでいる。
タイムマシンもないし、選挙の結果や代表になった人たちが行った政治の結果、何が起きるのかは小さな単位でしか分からない。100年後の世界がどうなっているのかなんて、予測以上には知りようがない。私たちにできることは、小さな単位の結論と予測や分析を積み重ね、それを元にして次のアクションを決めていく。これをひたすら繰り返す。
その結論や分析のためにも、公文書改ざんや議事録破棄は言語道断。
たとえ一つの選択は小さなものであっても、その先により大きな影響を与える場合がある。一種の「バタフライ効果」(初期条件のわずかな差が、その結果に大きな違いを生むこと)のようなものかもしれない。ブラジルの蝶の一回の羽ばたきがテキサスの竜巻を生むこともある。
というと、ひとつの選択を失敗してはいけないという過大な責任感がついて回る。
ここで思い出すのがスピノザの『エチカ』。17世紀オランダの哲学者であるスピノザは、どんな事物もそれ単体に「善悪」はなく、「善悪」は組み合わせによって現れると考えていた。ある人にとって善いものも、他の人にとっては悪いものとなる。薬単体では善でも悪でもなくが、私には効果があり、他の人には毒になる。私にとっては心地いい音楽も、他の人には不快。私が嫌いな食べ物も、他の人は好き。すべて組み合わせにより善悪の現れ方が異なる。
では、どうやって良い組み合わせを見つけるのか。それは実験することで分かると、スピノザは言った。
そもそも、みな、自分にとって「善いもの」を知るために、嫌いなものも含めて沢山の経験をしてきたはずだ。物事を倫理的、道徳的な結論は、本来、いろんな組み合わせを試す過程なくして得られるわけがない。倫理や道徳で言う「試す過程」とは、思考や議論、体験、学習だろう。しかし、この過程をすっ飛ばし、どこからかやってきた結論に飛びついてはいないだろうか。風が吹けば桶屋が儲かるように。
例えば、頑張って最初からここまで読んでくれた皆さま、ありがとうございます、7000字到着です。誰かが、私がここに書いていることに共感や反論を持ったとする。その時、その共感や反論の根拠は「私の主張」ではなく、「事実」を書いている部分であるべきだ。それらの「事実」を元にして自分自身で考え、「私の主張」は思考の材料として、思考の根拠が足りなければ自分で付け足すことで、あなた自身の主張ができあがる。
私は、自分の知りうる事実を元にして、自分の考えを書いているに過ぎない。それぞれが、脳内で様々な組み合わせを試す思考実験をする。そのために、私たちは現代文の授業で、文中の「事実」と「作者の主張」を分ける練習を何度もしてきた。もちろん「作者の主張」が根拠となることもあるが、その場合、「あの人が言ったから」というのは慎重に検討しなければならない。単に「あの人が言ったから」を根拠とするのは、思考を放棄していることになる。「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」が重要だ。
これは、「信任」にもつながる。「誰に任せたか」ではなく「何を任せたか」。
多数決で私たちが決めたことは、「何を任せるか」の内容の方だ。しかし、抽象的で目に見えない「何を任せたか」は名前や数に簡単に隠されてしまって、「誰に任せたか」の方が表に出てくる。そうして、私たちは「人を選んだ」と思いこんでしまう。選んだ人がその役目を果たしていなくても、「みんなで選んだ人だから」と諦めてしまう。
こうならないために必要なのは「批判的思考」だ。批判的といっても、いちゃもんやクレームのように相手を攻撃する考え方ではない。トイレットペーパーやうがい薬が売り切れる現象は、有名な人が言ったからという権威からだけでもなく、品切れが不安だからというゲーム理論からだけでもなく、批判的思考が足りないことも大いに関係しているように見える。「うがい薬が新型コロナに効く」という発表がされたとき、客観的事実に基づいてゼロベースで論理的に考える人が多ければ、うがい薬は品切れにならなかっただろう。
批判的思考は、「あらゆる物事の問題を特定して、適切に分析することによって最適解にたどり着くための思考方法」だ。根拠の「確からしさ」を常に精査しながら、適切かを確認する。この時、「事実か意見か」「意見だとしたらその発言者はどんな人か」、先入観やバイアスなどがかかってないかなど、確認すべきポイントはたくさんある。時には論理が破綻することもあるが、ともかく自分の頭を使って何度も試すしかない。野球を見ているだけでは野球は上手にならない。私はパユ先生(フルートの神様)の演奏をよく聴くけど、自分のフルートは上手にならない。まあ少しは上手になるかな。残念だけど、ひたすら自分で繰り返し練習するしかない。
繰り返すうちに批判的思考は習慣になり、うがい薬の顛末を冷ややかな目で見るところから一歩進み、なぜそうなったのか考えるようになるだろう。安易な「諸説あります」は、事実の追及を放棄していることに気づくだろう。苦境を乗り越えた人の話も、美談として消費するだけではなく、問題の原因や経過、解決法を知りたいと思うようになるだろう。
しかし、残念な報告もある。経済揚力開発機構(OECD)が48か国・地域の小中学校段階の教員を対象に行った「国際教員指導環境調査2018」(TALIS 2018)の調査項目の中に、「批判的に考える必要がある課題を与える」というものがある。全体の平均は61%。上位勢は、アメリカ78.9%、カナダ76%、イギリス67.5%、オーストラリア69.5%。近隣だと、台湾48.8%、韓国44.8%、中国(上海)53.3%。ほとんどの地域が40~87%に収まっているなか、日本は12.6%とダントツに低い。
そして、もう一つポイントが低い項目が、「明らかな解決法が存在しない課題を提示する」という項目。平均が37.5%、日本は16.1%。なんと下から3番目だ。
現在、日本の就学率は非常に高く、高校進学率も98.8%(2018年度)とほぼ100%に近く、大学(短大含む)進学率も58.1%(2019年度)と半数を超えている。識字率もほぼ100%だし、お金の計算もできる。
にもかかわらず、教育の現場では批判的思考を教えず、ただ与えられた課題を解くだけの授業が行われている。しかし宿題や校則に疑問を持って「なぜ」と大人に問うても、誰も満足に答えてくれない。だってそういうもんだから。だって私たちも夏休みの宿題をやってきたから。「読書感想文を書かなくていい理由」という作文を提出したら、学校で問題児扱いされるかもしれない。
その点、哲学はどこまでも根源的な問題を扱う。命とは、死とは、時間とは、存在とは、認識とは、知とは。「なぜ勉強しなければならないのか」というのも、立派な哲学の問いだ。バカにされたり、「そんなこと言ってる間に勉強しなさい」とは言われない。
答えのある与えられた課題をこなすだけでは、その課題を作った人よりも先には行けない。哲学では、誰かが主張をすると、必ずそれに対して批判が出される。その批判のおかげで、主張の足りないところが明確化し、さらに先に進むことができる。批判した側も、それがきっかけになり思考が深まる。これをグルグル繰り返しているのが哲学の歴史だ。科学も同じだろう。ジグザグ進行しながら先に進む。
私は個人的に、「なぜ学ぶのか?」の答えは、「巨人の肩に乗るため」と「自分の外に物差しをもつため」だと考えている。学ぶことで先人の知を得て、その先に進む。その時、指針となる物差しは自分の外に持つ。例えば、もう30年も前に高校生だった私は一通り日本史も世界史も勉強しているが、今、何か歴史の話を書くためにはまた勉強しなければならないだろう。30年前よりも知見は進んでいるから。だからといって、過去の勉強が全て無駄なわけではない。もう一度勉強する時の足掛かりとなる知識は充分すでに持っていて、そのおかげで先に進むことができる。
人間は、たとえ同じ社会に属していても多様性に満ちている。身体的にも精神的にも。全員でひとつの問題を考えたなら、かなり幅のある答えが出てくるだろう。自分と反対の思想を持っている人のことは簡単に理解できない。
しかし、私はこう考えることにしている。私が同性婚の合法化について考える時、頭の中に一本の線を引いて真ん中に点を打つ。その点をゼロ地点、賛成でも反対でもない地点。線の右側に行くほど同性婚の合法化に賛成、左に行くほど反対。私はかなり右端のどこかに位置している。人間の多様性を根拠にすると、この線の上には隙間なく全員の点が打たれるだろう。左側の果てしなく遠くにも点があるはずだ。
それから、これも何度も書いているが、多様性のおかげで人類は生き延びてきた。暑さに強い人と寒さに強い人がいて、インフルエンザに強い人とマラリアに強い人がいて、保守的な人と進歩的な人がいる。現在、慎重に感染予防をしている人とそうでもない人がいるのも、その幅の表れだとみえる。自分の立ち位置や周辺だけを見ると、その幅が見えづらくなる。私は考えることが好きで行動するのは苦手だけど、頭の中で「考えることが好き or 行動することが好き」という線を一本引いてみることで、途中にも反対側にも人がいるのだと確認ができる。自分の嫌いなもの苦手なものを反射的に「ありえない」というのは子供の言うことだ。
さて、そろそろ一万文字に到達しようとしている。
要点をまとめると、
・代表者は、多数決の結果であっても全員の代表者である
・みんなに含まれる一人は一人であり、それ以上の重み付けはされない
・外からやってくる幸福の定義は疑ってかかるべき
・私たちが選挙で選んでいるのは「誰を」ではなく「何を」
・当事者性を手放さない
・批判的思考を持つ
・人間の多様性を忘れない
そして、
・民主主義の原則は「多数派の原理」と「少数派の権利の擁護」
ながながと悲観的なことばかり書いてきたようだが、でも私は絶望していない。希望とか愛とか、そういうことではなく。功利主義の効用計算で考えてみると、私が絶望した時としない時、どちらの幸福度が高いだろう。自分ではどうしようもなく絶望してしまうような状況でなく、選べるなら。だとしたら、私自身のためにも全体のためにも、絶望しないほうが幸福度は高い。
つらい現実ばかりを見せつけられて気を抜くと絶望してしまいそうになるが、そんなときこそ批判的思考と思考実験の出番だ。批判的思考と思考実験を脳みそにインストールして動かしてみよう。
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