母と京都の幻夜
3年前に亡くなった母は、花が大好きだった。
ものごとにあまり執着しないタイプだったが、花の名所には行きたがった。
父も花好きだったので、夫婦であちこち花めぐりの旅をしていた。
北海道・富良野のラベンダー、長崎のハウステンボスのチューリップ、広島・世羅の芝桜、岡山の醍醐桜。
とりわけ桜は大好きで、毎年必ず出かけるお花見スポットもあった。
自宅から車で1時間ほど、あたり一面田んぼが広がる地域の川沿いに、長さ約2㎞にわたってソメイヨシノ、そしてその手前にところどころ菜の花が植わっている。
ソメイヨシノと時期を同じくして菜の花も満開になる。あわいピンクと鮮やかな黄色のコントラストは、春ならではだ。
母のお花見というのは、ただただ、花の下を歩くというもの。本当に嬉しそうに桜を見上げていた。「団子より花」の人だった。
そんな母と、いまから20年ほど前、京都に桜を見に行くことになったのは、偶然だった。
私が仕事で知り合った人から、あるイベントのチケットをもらったのだ。
それは、「平安神宮 紅(べに)しだれコンサート」。平安神宮をライトアップして桜と音楽を楽しもうというものだ。
京都に桜を見に、とは、誰もが一度は憧れるのではないだろうか。母もそうだったに違いない。しかし憧れと同時に「でも混んでるよね」と二の足を踏むのも事実で、これまで計画したことすらなかった。だが今回は違う。チケットもあるし、たとえ混んでいても、京都に桜を見に行かなくては。
自宅から京都は、新幹線を使えば苦労せず日帰りできる。
昼前に京都についた私と母は、混雑をさけて少し早めに、清水寺近くで和食を食べた。それからのんびりと散策した。
運のよいことに、京都はちょうど桜が満開だった。そして快晴。
街を歩くと、目に入る景色すべてに、桜の花が映りこむ。京都ってこんなに桜が植わっていたんだと改めて驚く。この時期でなければ気づかない。
桜の背景には、青空と端正なたたずまいの寺院。
1日に、いっぺんにこんなに美しいものを見て良いのだろうか?と思うほど、どこもかしこも日本画のように美しかった。
夕方、空が少しピンクがかってきたころ、会場となる平安神宮を訪れた。
本殿の背後に広がる日本庭園「神苑」に足を踏み入れて、母と2人、思わず歓声を上げた。
池をぐるりと囲むように並ぶたくさんの紅しだれが、それはそれは見事だったのだ。
正式にはヤエベニシダレというそうだが、八重咲きだけに、ソメイヨシノと比べて、花のひとつひとつがこんもりして見える。色はまさに紅色。ちょっとお酒に酔ってほんのりと頬が染まったときのような、ぼかしの効いた上品な色だ。それがゆるりとたれた枝を覆い隠さんばかりに、隙間なく、咲いている。
空は次第に暮れてゆき、青色から少しずつ紺色になっていく。
神苑はライトアップされて、桜の色がより濃く見える。暗く静まり返った池は、水面に向かって連なって咲く花を、鏡のようにくっきりと映し出す。本物の紅しだれより一段低いところに、もうひとまわり桜の木が植えられているかのようだ。
景色に見とれていると、池の真ん中に、小さなボートがすべるように進んできた。そこにはボートの漕ぎ手のほかは演奏者ただ1人。すっくと立ちあがった彼はパンフルートの演奏を始めた。パンフルートとは、木管楽器の一種で、管のたくさんある縦笛のようなものだ。
私も初めてその音色を聞いたのだが、まろやかで深い音と言ったらよいのだろうか。池に反響して、神苑全体が音にやわらかく包まれていく。
この景色にこの音楽。春の夜の風はやさしくて、幻を見ているかのようだった。桜の季節はほんの一瞬だとわかっているから、なおさら、夢とか幻としか言いようのない、不思議なほど美しい時間だった。
コンサートが終わって、帰りはこちらも桜の名所として知られる、円山公園を通って駅に向かった。
公園ではあちこちに宴会の輪ができていて、たいそうにぎやかだった。
この雑然としたお花見が、少し前の幻想的な時間とあまりにも正反対だったので、思わず母と笑ってしまった。
母とはあれから何度も、「あの紅しだれ良かったよねえ」「きれいだったねえ」と話題にしたものだ。同行しなかった父ですら、「京都の桜は良かったらしいな」といまでも話しているほどた。
その数年後、母は、桜の名所として知られる秋田・角館に行ったが、残念ながら桜は終わっていた。また福島・三春町の滝桜をいつか見てみたい、と折に触れ言っていたものの、それは叶わなかった。
だから、あれだけ良いタイミングが重なって、何もかもが美しかった春の京都の旅、そして平安神宮のコンサートは、母への良いプレゼントだったなあと悦に入っている。
今年も桜が咲いた。
桜を見上げ、また母を想う。
(text,photo:Noriko)©elia ※写真はイメージ