村上春樹の地下二階
前書き
僕は村上春樹と同じ大学の出身だ。年齢は40歳くらい下だけど。
ベタにもほどがあるが、大学時代に春樹にハマった。周りにもそういう人が大勢いた。
今でも、追いかけ続けている。彼は日本では例外的に、「地下二階」の自我を描ける人だからだ。
昨年度の終わりごろから、村上春樹の「騎士団長殺し」を読み耽っていた。そして、先日発売された川上未映子によるインタビュー書「職業としての小説家」と併せて、
久々にハルキスト(うーむ、ダサい!)としての生活を送っていた。
学生の頃、「1Q84」が発売されたときは朝イチで購入して寝ずに読破しましたが、もうそんな若さはないですね。
長い本は滅多に読めない。
彼の作品の中で最も難解とされている「ねじまき鳥クロニクル」や、僕の中での最高傑作「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の頃から、
「穴」や「暗闇」のモチーフがよく使われていたが、今回の小説でも久々に存在感をもって登場していた。
これは何のメタファーなのだろうか。
村上春樹はよく「地下二階」という表現を使うのだが、
いわゆる「近代的自我」や「自意識」などと呼ばれるものは自分の中の「地下一階」レベルのものであって、
自分でもよく見えていない「地下二階」レベルのものに接近したり取り出したりするのが、「物語」だと言っている。
初めに挙げた2つの本を読んだ後、
「そうか、そういうことだったのか。」
と、自分でも妙に思えるほどにすとんと腑に落ちた。
明治~戦前後くらいの「近代」と呼ばれた時代には、
まだよくわからない「社会」とか「自我」というものとの関係や拘束の中で、
そういう「地下一階」レベルのものを表現するのに作家たちは命を懸けていたわけで、
森鴎外や太宰治、志賀直哉などはその典型だったのだ。
いま、あのような小説を書こうとしても上手くいかないだろうし、きっと人気も出ない。
今なお彼らの小説に命があるのは、きっとそういう時代の必然性だったわけなのだ。
翻って現代ではどうかというと、共産主義や国民国家などの大きな軸が朽ち果ててしまった状態で、
「地下一階」は無価値で既視的なものとなってしまった気がする。
しかし、そのもう一つ下の階に何て言えばいいのだろう、
「得体は知れないが、どこか思い当たる」ような混沌としたものが棲んでいるのだろう。
若いころは、それを取り出そうとしても到底無理だ。
そのための手段を持っていない。ただのネクラな奴になるだけだ。
年を重ねるにつれて、たとえば社会人になったり、
友達との距離の置き方も変わったり、誰かが死んだり、
結婚したり……と、様々な形の自己を持ち、少しずつ「地下2階」への近づき方と距離の取り方を覚えてくる。
もちろん、そんなものは見ない方が「しあわせ」だと思うし、
見ないで一生を過ごす人も多くいる。
それが「健全」な生き方なのだ。
村上春樹の文章は、その「地下二階」の表現が圧倒的に秀逸なのだ。
あてはめようと思えば、なんだって当てはまる。
フロイトでもユングでも、ハイデガーでもデリダでも、様々な理論が代入可能であるにもかかわらず、
それをやると空虚なものになってしまう。
結局、彼は「語りえぬものを語る」作家なのだ。
日本の文学史に、取って代わる者はいない。