考えれば考えるほどよくわからない「品」について哲学する。それはわたしたちを幸せにするか?
こんにちは!いけかよです。
毎月開催されているエラマプロジェクトの名物企画「哲学バー」。毎回、1つのテーマを掲げ、参加しているみなさんで自由に好き勝手におしゃべりしあうイベントです。
先日のテーマは「『品』とはなにか」でした。
「品」は、「上品」「下品」「品がある」「品がない」などに使われる「品」です。
この「品」というもの、哲学してみると実に歯ごたえのあるものでした…!
ということで、この哲学バー2号店にて、延長戦ということでひとり哲学バーしてみたいと思いますっ!
生きるために「品」は必要か?
この日は当然ながら「品」という文字が使われる言葉がたくさん列挙されました。
品がある/ない
上品/下品
品格
品質
品性
品行方正 などなど。
でも、どれもこれも、なんだかよく考えると微妙に違うニュアンスな気がするんですよね。
「品がある」と「上品」は、まったくおなじ意味ではない気がしませんか?
そもそも「品がある」ってどういうこと?という点については、もちろん哲学バーでは議論されました。
「品がある」は、言い換えれば「清潔」「ていねい」「姿勢がいい」「言葉遣いがきれい」などなど。なんしか、めっちゃクリーンなイメージですね。ここはみなさんなんとなく同意いただけるのではないかと思います。
そして、その逆の「品がない」も、そのまま同じくひっくり返して「不潔」「雑」「言葉が汚い」とかが連想されますね。
ここで考えたいのは、生きるために「品」は必要か?ということ。
参加者の方からは「品性や品があるのはすばらしいこと。でも、人間のほんとうの生きる力や欲望は、その対極にある『品のない』ところからくるのではないか?」という言葉がとびだしました。
たしかに、生きる力にあふれたエネルギッシュさと、清廉潔白な上品さは共存しないようにも思えます。生きる力=むき出しの欲望や渇望と考えたときに、たとえば戦争とか、生きるか死ぬかのような極端な状況において、上品さを保っていては生き抜くことはできないかもしれませんよね。
「品」とは「品定め」の「品」
また、この「品」ですが、自ら持とうと思って持てるものではない類のように思います。
「今日から品よく生きるぞ」と決めたとて、それってどんな生き方?と思いますよね。
そもそも「品良くなりたい」と思っていることじたい、あんまり品が良いとはいえない感じがするという、恐ろしき矛盾をはらんでいたりします。
そして、自ら「私は強い」という人にさほどの違和感はなかったとしても「私は品が良い」という人に対しては若干の驚きを持ちつつ「…ふ、ふーん…」と引いてしまう感じになりませんか?
そもそも、本当に品のいい人は「私は品が良い」なんて言わないよねという矛盾がここにも発生します。
そう、つまり「品」とは、自分では決められないことなんじゃないかと思うのです。
「今日から私は強くなる」と決めることと「今日から私は品よくなる」と決めることはなにがどう違うのか?この違和感はどこからくるのかというと、そのひとつに「品」とは「自分で決めることができない」という特性があるんじゃないかと思ったのです。
つまりその人に品があるかないかというのはあくまで他人が決めることだということです。
自分がどんなに品位を保っていると思っていても、他人がそう思っていなければその人に品位はないも同然なのです。
(ただ、その人が「自分は品位があるのだ」と思うのはもちろん自由です。そしてそう思うことによって、ほんとうにそうなる可能性だって十分にあるでしょう)
なぜそう思うのか?
この「品」というものは、人が人をコントロールするために人間が勝手に作ったルールに過ぎないのではないか?と思うからです。
そして「品」とは「常識」とか「道徳」とか「マナー」とか「世間」とか、そういった類と同じものだと思うのです。
これらはつまり「枠」です。この「枠」に納まっていれば、非常に扱いが楽な人ができあがるような気がしませんか?
常識的でモラリストで他人に迷惑をかけない人のことを「品行方正」というのです。
少し極端かもしれませんが、いけかよの思う「品」は「品定め」の「品」です。
この人に品があるかないか。きちんと枠に収まっているかどうか。違和感がないかどうか。
そうやってジャッジする=品定めをして、人はだれかを「品がある」「品がない」と判断するんじゃないでしょうか。
でもそこに、ジャッジされた人のキャラクターや価値観や人生観はなにも加味されません。
「品がある/ない」ことと、その人に魅力があるかどうかは関係ない。
「品がある/ない」ことと、その人に才能があるかどうかは関係ない。
「品がある/ない」ことと、その人が人生を楽しんでいるかどうかは関係ない。
そう。つまり「品がある/ない」ことは、実は生きることにはめちゃめちゃどうでもいいことだったのでした。
あの大女優がいちご大福を5個一気食いしたら
しかし、そのような「人間的魅力」と「上品さ」を兼ね備えた人も存在はするだろうと思うのです。それはきっと、それらを併せ持つことが「義務」のような人たち、皇室や貴族や王族とかでしょうか。
じゃあ、そういう人たちに果たしてあなたはなりたいと思うでしょうか?
「なりたい」と思う人はきっとそんなにいないでしょう。なぜか?そういった血筋であるがゆえの責任の重さもさることながら、さぞ息苦しかろうというのは想像に難くないからですよね。絶対にまちがってはいけないプレッシャーのなかで生きるというか。
いや、そんな極端な人たちを例に挙げるなとお思いでしょうか。
じゃあ、哲学バーにも話題にあがった「品のある人」代表例は、女優の吉永小百合さんでした。彼女こそ、「上品」「気品」を絵に描いたような感じがします。ある意味「完全無欠」な存在とも言えるでしょうか。
でも、それってやっぱり「女優」、多くの人からの「吉永小百合はこういう人であってほしい」というある意味の「偶像」の枠にきっちり収まっているからですよね。
そしてそれは事務所の戦略によって、ご本人の意思や個性は抑え込まれているということももしかするとあるのかもしれませんが、女優ってそういう仕事であるということを考えると、皇室や王族に通じるものもありそうです。
でも、ですよ。
たとえば吉永小百合がめちゃくちゃお腹すいてて、控室に差し入れで置かれていたいちご大福を5個くらい一気食いして、口の周りを片栗粉で白くしながら「あんまりおいしかったんで、つい…」なんてはずかしそうにつぶやいていたら、と考えてみてください。
上品か下品かでいうと、下品ですよね?
でも「めちゃめちゃカワイイ〜〜〜〜〜!!!! 好き!!!!」
ってなりませんか?
いや、吉永小百合はそんなことしない!というのはこの際ナシでお願いします。想像してください。
そのうえで、「そんな小百合は嫌だ!」という方もおられましょう。
でも、いけかよは「めちゃめちゃカワイイ〜〜〜〜〜!!!! 好き!!!!」ってなりました。
嫌だ!と思われた方は、きっとその姿に「食欲」という人間としての本能を、しかもむき出しのそれを見たからですよね。そう、「品」と「本能」はきっと相容れないのです。
神格化した偶像的存在である「吉永小百合」が、実は自分たちとおなじ欲を持った人間だったと思い知ることは、ファンからすると裏切られたような気持ちにもなるのでしょう(頭ではわかりつつもね)。
しかし、そうでなくニュートラルに吉永小百合を見てるいけかよとしては、「いちご大福5個一気食い」という人間の本能=生きる力を感じたとき、その人にパワーや魅力を感じることもあると思うのです。
ていうか、いけかよはそういう人が好きです。
わたしたちは人間であり、人間である以上は「下品」とされることを避けて生きることはできません。
人間には食欲、性欲、睡眠欲以外にも承認欲、支配欲などさまざまな欲があり、それらの「欲」に忠実になること。「欲」を満たすこと。「欲」をあらわにすること、これらはきっと「下品」になるはずです。
でも、行き過ぎた欲は身を滅ぼしますが、そうでない場合、欲は日々のガソリンです。
そう考えると、「品」なんて、死んだ人にしか与えられないものなんじゃないかとも思うのです。
なにを自分のものさしにするか
いけかよは、上品に生きるよりも欲望むき出しで人生を楽しみたいと思いました。
どんな生き方か?
貪欲さとか、情熱とか、魂の叫びとか、そういうもの。
ギラギラしてドロドロした、熱い感じのものをしっかり自分のなかでたぎらせて生きることです。
一方で、人間はとてもとても尊い部分も併せ持っています。
たとえば寄付をしたり、電車で席をゆずったり、大切な存在を抱きしめたり、助けてくれた人に恩返しをしたり、深い傷を負った人に寄り添ったり、無償の施しをしたり…。
わかりやすく表現するならば、前者が「悪魔」で後者は「天使」でしょうか。
人間という生き物は、悪魔的な部分だけでも、天使的な部分だけでも生きていくことはできないように思います。どちらも必要だし、すべての人がどちらも併せ持っている。
バランスは人それぞれだしバランスが崩れることもあると思うのだけど、でも、やはり両方が必要なのです。
そしてそこに「品」が挟まれる余地って、ない気がするのです。
「天使」の部分にすら、「品がある」云々って、しっくりこないと思いませんか?
人間が「充実した人生」「良い人生」を送ることと、「品がある」ことはまったく別次元で、いけかよからすると、前述のとおり「どうでもいいこと」。
ただあくまで、いけかよはその物差しを採用しないというだけで、「品がある人として生きたい」という人を否定するものではありませんよ、念の為。
でも、たとえば歴史に名を残した偉人たちを考えてみてください。
マザーテレサとか、ガンジーとか、オードリーヘップバーンとか、アインシュタインとか、松下幸之助とか、ジョン・レノンとか…。
あなたが「スゴイ」と思う人ならだれでも。
その人たちに「品」なんて言葉、チープすぎて似合わないんじゃないでしょうか。
もちろん、人によっては残された逸話が下品すぎっていうこともあるでしょうが(笑)、「品がある」「上品」「品格」などなど、どれもしっくりこないはず。そんなものさしなど、超越したからこそ偉大なものを残し、いまもなお多くの人の心を捉えているのだと思うのです。
そう、「品」とは、人を枠にはめるために考えられた概念だといけかよが思うのはそういうことです。
事実、時代と国が変われば「上品/下品」の概念も変わります。
そばをズーズー言わせて食べることが欧米人には下品に映るけど、日本人にとってはそれが当たり前ですもんね。
いけかよは、時代と国が変わればひっくり返る価値観は、採用しないことにしているんです。
それよりも、自分の人生のルールは自分で決めたい。
「品」とか「常識」とか「モラル」とかじゃなく、自分にとって正しいかどうか、しっくりくるかどうか、納得できるかどうかで、選択をしたいのです。
そして、そんないけかよをだれがどのようにジャッジするかも、どうぞ自由に決めてください、と思っています。
ネガでもポジでも、どうぞご自由に、です。
「品? 知らんがな!」
そんなかんじで、今日も欲望の赴くままに、飲んで喋って笑って、楽しむことに命を使いたいと思っているのです。
では、また!
【告知】哲学バーは毎月開催しているオンラインの対話イベントです
今回は「品とはなにか」というテーマでしたが、こんなふうにいろんなテーマでお酒や好きなドリンク、おつまみなど片手にゆる〜く哲学対話をするイベントを、エラマプロジェクトでは毎月開催しています。
哲学バーのルールは2つ、「①答えを出さない」「②まとめない」。参加した方々それぞれに、いろんな考えや気付きやモヤモヤをもちかえっていただけたらいいな〜と思っています。
次回の開催は9/9(月)20:00から。テーマは「『味のある人』ってどんな人?」です。
詳細・お申し込みは以下HPをご確認ください。
初めての方も大歓迎です。ぜひチェックしてみてくださいね!
Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)