「ピーター・シスの闇と夢」展にみる歴史のはざまを生き抜いたクリエイターの姿
こんにちは、momoです。
わたしはもともと家に引きこもりがちなタイプではあったのですが、特にここ数年、大好きだったものに対する熱も落ち着き、アクティブさがさらに少なくなっていました。
また、気になったものがあっても「まぁもういいか」となることが多く、行動にまで至らず終わることがほとんどでした。
なので、同じように気になったものに対して、遠かろうがめんどくささに負けず足を運ぶ自分の様子を客観的にみると、我が事ながら相当興味があるんだなと感じます。
7月に入ってからその傾向が続いているので、最近行った展覧会にまつわるご紹介をしてみることにしました。
ピーター・シス、チェコスロヴァキアに生まれる
ピーター・シスをご存じでしょうか。フィンランドになじみがある方にとって「シス」と言えば「SISU」が思い浮かぶかもしれませんね。
ご想像通り人物の名前ですが、わたしはまったく存じ上げておらず、今回初めてその存在を知りました。
展覧会情報は偶然知ったのですが、メインビジュアルとなっている作品を見てとても気になり、「まぁ別にいいか」とはならず「ピーター・シスの闇と夢」展を八王子の美術館まで観に行ってきました。
ピーター・シスは現代アメリカを代表する絵本作家で、国際アンデルセン賞など数々の賞を受賞しています。
経歴としては、アニメーション制作や新聞・雑誌の挿絵などを担当。また、公共空間のアートプロジェクトなどにも参加しています。
意欲的に創作活動をおこなってきたシスの原点はチェコスロヴァキアです。同国は1993年にチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分かれていますが、シスは1949年にチェコスロヴァキアのプラハ南東にあるモラヴィア地方の中心都市ブルノで生まれました。
シスが3歳の時に一家はプラハに移っています。
ヨーロッパの複雑な歴史過程をここで詳しく書くことはできませんので、以後の歴史的な内容は、シスの人生を中心に簡単に記すものになることをご了承の上、読んでいただければと思います。
チェコスロヴァキアは中欧とされる位置に存在し、東西の狭間にあったと言えます。
シスが生まれる前年、1948年に二月事件が起こり、チェコスロヴァキア共産党がその勢力を強固なものとしていきました。そして、事実上の独裁が確立し、ソ連型社会主義の国となりました。
ソ連のスターリンは1953年に亡くなり、1956年にフルシチョフがスターリン批判演説をおこなっていますが、チェコスロヴァキアはその影響が少なかったようで、スターリン主義者の指導者がその権力的地位をかためていきました。
また、1960年には国名がチェコスロヴァキア社会主義共和国とあらためられました。
シスが通っていた小学校では、子どもたちは戦争や兵士の絵を描いたり、本物のライフル銃を持ったりすることもあったようです。
10代後半になると、シスはバンドを結成してロックミュージックをカバーしたり、20歳を過ぎるとDJもしていたり、制限のある中でも興味を持ったことや自分の好きなことをあきらめずに過ごしていたことがわかります。
進学した美術大学では学生たちにソビエト軍を称賛する作品を作るよう強要することがあったようですが、シスは規制をかわしながら制作を続けたというエピソードもあります。
28歳のときに留学が許可されロンドンに行きましたが、博士課程を終えるまで学ぶことは許されず帰国しています。
1982年に再び海外に行けるチャンスがやってきました。
1984年に開催を控えていたロサンゼルスオリンピックのアニメーションを制作するため、チェコ・アニメの代表としてアメリカに渡ったのです。
しかし、ソ連を筆頭に東側諸国がオリンピックをボイコットすることが決まり、1983年に帰国を命じられます。
シスはそれを拒否し、単身アメリカに残りました。
「自分の」創作活動をするためには家族に会えなくなるという悲しさ、つらさを我慢してでもこの機会を逃せないと思っての決断だったのでしょう。
アメリカ暮らしの当初、同じチェコスロヴァキア出身で父親の友人でもあった映画監督ミロス・フォアマンの作品「アマデウス」(アカデミー賞8部門受賞)のポスター制作を請け負ったこともありました。
40歳のときにアメリカの市民権を取得、その年の11月にはベルリンの壁が崩壊するという大きな出来事がありました。それをきっかけにプラハに戻り家族との再会を叶えています。
同じ時期、フィンランドは
生まれ育った国についてはシスの作品を理解するためにとても重要な要素となるので書くことにしましたが、チェコスロヴァキアと位置は近くなくてもヨーロッパとされる地域にあり、しかもソ連の隣という地理であるフィンランドが同じ時期にどういう状況であったかもあらためて気になりました。
フィンランドは第二次世界大戦では敗戦国とされ、1947年のパリ講和条約により領土割譲、3億ドルの戦争賠償金が決定されました。
チェコスロヴァキアがソ連型社会主義国として歩み始めた1948年に、フィンランドはソ連と友好協力相互援助条約というものを結んでいます。
これはソ連側から提案されましたが、フィンランドは条件付きの交渉に応じ、条約の内容はフィンランド側の提案も受け入れさせることができました。
1952年の秋には戦争賠償金の支払いが完了し、同じ年にはヘルシンキでオリンピックが開催されています。
また、1955年12月に国際連合に加盟しました。
フィンランドは東西の間で均衡を保つように努めましたが、西側諸国からは中立だと信用してもらえず、ソ連からも西側諸国と親しいと見なされていました。両陣営の様子を窺いながら国家の運営をおこなっていましたが、ソ連に内政干渉を許す事態も起きています。
そのソ連は1991年に崩壊しました。
どちらの国も戦争の影響はもちろん、ソ連という国の存在の大きさを避けることはできませんでした。
自由に創作したい者にとって、監視や抑圧のある環境は非常に苛酷ですが、シスはその中で自分の芸術や自由の獲得について深く考えていたのだと思います。
先述の国際アンデルセン賞ですが、フィンランドの作家も受賞しています。
この賞は1953年に国際児童図書評議会によって創設された子どもの本の国際的な賞で、「小さなノーベル賞」とも言われています。
第3回までは作品に対して授与されていましたが、第4回からは子どもの本に貢献し続けてきた作家の業績に対して授与されることになりました。
そして1966年からは画家賞が設立され、作家賞との2部門で受賞者が選ばれています。
1966年に作家賞を受賞したのはトーベ・ヤンソンです。
シスは2012年に画家賞を受賞しています。
シスの人生を追体験
展示作品にはポップな作品、かわいらしいと感じる作品、幻想的な作品がありましたが、それぞれに哲学が込められていたり、大切にしたいと考えていることが伝わる、シスの人生を感じられる作品ばかりでした。
細かいところまでのこだわりもすごく、すべての作品をまじまじと観たくなります。
また、あるパートで描法についての解説を読むと、シスが亡命者として必死にアメリカで生きようとしたことが時代を超えてダイレクトに感じられます。
シスの自伝的絵本に「かべ-鉄のカーテンのむこうに育って」という本があるのですが、タイトルだけでも惹きつけられてしまいませんか。
これまで展覧会に行って絵本を買った経験はなかったのですが、今回初めて迷うことなくこの本を買いました。
展覧会は8/31(木)まで八王子市夢美術館で開催されています。まだまだ会期中ですので、関東の方、夏休みに東京に来る用事がある方はぜひこの展覧会も予定に入れてみてください。
Text by nakagawa momo(フリーライター)