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まずはいったん人生の意味を問うてみる。長い暇つぶしをわたしたちはどうやり過ごすべきなのか?

こんにちは!はじめまして。よむエラマの編集長をしています、「いけかよ」と申します。
フリーランスで、Webやアプリやライティングなどのもろもろのお仕事をしています。
また、エラマプロジェクトでは代表の侑美さんといっしょに、主にライティングにまつわるワークショップを行ったり、飲みながらゆるゆると語る「哲学バー@オンライン」でバーテンダーをしたりしています。

好きなものは、お酒と音楽とデヴィッド・ボウイと孫悟空(ドラゴンボール)。あっ、そして、忘れちゃいけない、「哲学」も。
そもそも、理屈っぽいのが玉にキズなわたしですが、そんな理屈っぽさから生まれた思考の数々を、こちらで少しだけみなさまにつまびらかにしていきたいと思っています。
どうぞよろしくお付き合いくださいませ。

基本的には超根暗

元来考え込みやすく落ち込みやすく、自分に自信のない人間だったわたし。
「自分はここにいちゃいけないんだ」
「自分は自分の思う通りに生きちゃいけないんだ」
「悪いことが起きるのは、全部自分のせいなんだ」
「こんなわたしが自分に自信なんて持っていいわけない」
「わたしはなんのために生まれてきたんだろう」
と、読むだけでげんなりするような思考が、子供の頃から30代前半頃まで、常に頭を埋めつくしていました。

しかし、2020年に不惑の歳を迎え、完全なる不惑には程遠いですが、それでも

あたしの人生、まあまあええんちゃう?

くらいの境地にまでは達することができました。

もちろん、この先なにが起きるかわかりません。
ただ、2021年2月現在、わたしは前述のような気持ちで日々生きています。
少なくとも、「自分はなんのために生まれてきたのか」と、じっとり死にたいモードな感覚に陥ることは少なくなりました。

ここまで来るにはそれなりの紆余曲折があったわけですが、楽になれたのは「人生に“意味”はない」ということがわかったのが理由のひとつだと思います。

人生の「意味」とは?

人は、ただ生まれて、そして肉体が滅びる/壊れることで、死を迎えます。
どんな人も、それは平等です。
極論、人間とは、それだけの生物だと思うのです。
犬や猫や牛や豚などの家畜から、鳥や獣などの野生動物、植物と同様に、ただただ生まれ、死んでいくいきもの。森羅万象のほんの一部、それが人間。

しかし、死に方はそれぞれ違うし、生まれ持った特性、家柄、国籍、性別、体質などによっても人生は大きく左右されるでしょう。

そこで人間は葛藤します。
動物や植物とちがうのはここかもしれませんね。

自分の人生が苦しいとき、うまくいかないとき、人は葛藤します。そして思うのです、「なぜ自分は生まれたのか?自分が生まれた意味は何なのか?この苦しみの意味はなんなのか?」と。

人生が順風満帆なとき、人は人生の意味を問いません。

つまり、苦しいからこそ、人はそこに意味を求めるのです。
「この苦しみは、●●のため」という理由があれば、人は苦しみを乗り越えることができる。
高校球児が炎天下に死ぬ思いで130球投げるのは、「優勝」に向かっているという「意味」を実感するからでしょう。
かたや、同じ炎天下でも渋谷でタピっている(古!)ギャル(もっと古!!)は、人生の意味など問わないはずです。少なくとも、タピっている間は。

どちらも同じ生命。
そこで、130球投げる球児とタピるギャルの人生、それぞれ意味がある/ないと、はたしてジャッジができるでしょうか?

意味がある人生と、ない人生があるとしたら、それっておかしくないか?!
同じ人間なのに!

脳ミソは「おさまりのよさ」を求める

人間は、苦しいことを乗り越えるために、そこに「意味」を求める生き物だと思うのです。

たとえばそれは、収容所の中においてこそ「『人間』を知った」と言うヴィクトール・フランクルから、わたしたちのレベルだと無為なミーティングだったり、説明できないハンコ承認だったり、モテるかどうかわからないダイエットだったりにも、人は「意味」を求めます。

「意味がある」ということはすなわち「おさまりがいい」ことだとわたしは思います。
「おさまりがいい」というのは、脳ミソ的におさまりがいい=納得できる、ということです。(理屈っぽいですね!!!!)

脳ミソは、おさまりがいいことが大好き。
でも、みんながみんな、納得して生きたいはずです、当たり前ですよね。
しかし本来、人生そのものが持ちうる“意味”はない。
130球投げる高校球児も、タピるギャルも、靖国神社に眠っている戦死者も、アウン・サン・●ー・チーさんも、それぞれの人生に“意味”はない。

それはいったいどういうことか?

人生における意味は、「ある」のではなく「見出す」ものである、ということなんです。

だから、人生の意味を問うても答えはない。なぜなら自ら見出すものだから。
だからこそ、人生に優劣もない。
本人たちがどう思おうと、フランクルも高校球児もギャルも、人生の重さは同じです。

言い換えれば、意味ある人生を送っているように見える人は(たとえばホ●エモンとか西●亮廣とか?)、見ている側が勝手にそう意味づけているだけ。
そう、脳ミソが「おさまりがいい」のが好きだから、勝手に意味づけして、納得しているだけに過ぎないと、わたしは思います。
(そういうふうに、他者からたくさん「意味がある」と思われることによって生まれる力を「影響力」といいます)

同じ人間として、ホ●エモンの人生もわたしの人生も、尊さは等しいと思っています。

だからこそ、自分の人生に、自分でどう意味付けをするのか?
これこそが、わたしたち人間に課せられた宿題なんだと、思うのです。

人生とは長い暇つぶし

「人生は長い暇つぶし」と言ったのは果たして誰だったのでしょう、わからないのですけども、全面的にアグリーです。
基本的には、何をしても自由。しなくても自由。
もちろん、いろんな状況の人がいます。みるからにハッピーな人もいれば、そうでない人も。
でも、だからこそ、それをわたしたちがどうとらえ、どういう意味付けをするか。
人生とは、「意味があるもの」なのではなく「生きてみて、その後どんな意味があったかを検証するもの」なんだと、思うのです。

ほな、死ぬまで人生の意味がわかれへんやないか!と思われたそこのアナタ。

そうなんですよ!

人生って、きっと死ぬまでその意味なんてわからないんじゃないかと思うのです。
人生の意味を探している間に、きっと終わってしまう。それが人生なのかもって、思います。

そんな人生に意味付けをするために、他者との折衝があり、愛したり傷ついたり挫折したりして、人間的成長をする。
他者とのつながりは、人間の根源的な欲求であり、社会というものを構成する根幹ですから、それなくして人生を送ることは不可能ですよね。

そして、たとえば本があり映画があり音楽がある。
人によって、よろこびはさまざまですが、ひとくくりにして言えば「エンターテインメント」とよばれる産業がこんなにも栄えている理由、それすなわち、人生がヒマだからです。

生命維持に必要な睡眠や食事を除いた人生のヒマな時間=余白を、わたしたちは仕事や暮らしで塗りつぶしているとも言えます。
そして、ご自身にとっての「エンタメ」を、より多く持っている人が、より人生を楽しむことができると思うのです。

いけかよの生きる理由は、美味しいお酒と、大事な友達や仲間がいること、大好きなアーティストのライブ、とかかな〜。

それは人によっては家族かもしれないし恋愛かもしれないし仕事かもしれないし、キャンプかもしれないしランニングかもしれないしUSJかもしれない。

この「よむエラマ」も、その暇つぶしの片棒を担いでいる。
素敵な仕事でしょう?

編集長として、わたしはこれに“意味”を感じているのです。

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

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