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ものごとには理由なんてないほうがいいんじゃないか問題

こんにちは、いけかよです。

わたしは以前、人生に意味はないということを書きましたが、今日はさらに「ものごとには理由がないほうがいい」というお話。

最近ふとそう思うことがあったからなんですが、さかのぼればそれは超氷河期だった大学4回生の就活期のことです。

けっこうわかってた22歳のわたし

当時はなかなか就職はきびしかったです。とはいえ、それ以外の時代に新卒として就職をしたことは当然ないので、比較のしようもないのですけど。
芸大で一応デザインを学んだわたしは、とりあえずのらりくらりと履歴書を企業に送ったり説明会に参加していたと思います。
そんななかで、別の大学に進んだ、全く違う分野の友人と電話で話していたときのことをよく覚えています。
今もそうだと思うのですが、自己PRみたいなものを書かされますよね。それについて話をしていたときのこと。

わたし「わたしは自分に自信がある、でもそれに根拠はない。しかし、根拠のない自信ほど無敵だと思う。なぜなら根拠のある自信は、その根拠が崩れてしまえばなくなってしまう自信だが、そもそも根拠じたいがなければなくなりようがないのだから、根拠のない自信が一番強いと思う。…みたいなことを書いてやろうと思うねん!」

友人「アホか、そんなん社会で通用するわけないやろ」

がびーん。
その言葉に打ち砕かれて自信をなくしたわたし。全然自信ないやんけ!というオチなのですけども。

しかし、今もよく覚えているこの友人とのやりとり、我ながらわかってるやんあたし、と思ったりもします。
根拠のない自信、そら無敵ですよね。

そして「そんなん社会で通用するわけない」と一蹴した友人の言葉も、おっしゃるとおり、と思うのです。

でも、自信にはなるべく根拠はないほうがいいとほんとうに思います。
だって、そんなハッタリをかましていた22歳からのち、どれだけ自分が「自信」がなくて「自信」をもちたくてその「根拠」を集めようともがいていたか。
スキルを磨いたり努力をしたり経験を積んだり、時には他人を貶めてみたり比較してみたり。
その行為は、無駄だったとは全く思いませんが(当時の自分には必要なプロセスだった)、同時にいかに自分は自信がないかを自分に再認識させるようなものでもありました。傷口に塩を塗るような感じというか。

しかし、やっぱり本当に揺るぎない自信というのは今でも目下模索中ですけど、とにかくわかったのは「●●ができるから」とか「●●があるから」とか、そんな「根拠」はチンケに感じるほどにもっと向こうのほうに、ただ単に「在る」だけというシンプルかつ崇高なもののようなイメージなのです。

理由や根拠は無理やりこじつけられてるだけ

「自信」と同じように、いろんなものに「理由」ってないほうがいいんじゃないかと思うことがあります。
たとえば仕事をしているときでも「その根拠は?」とか「理由は?」とか尋ねられることってありますよね。

みなさん正直にお願いします。
基本、そんな理由なんて「ハッタリ」じゃないですか?
無理やり絞り出した適当な後付けの理屈じゃないですか?
自分が調べたわけじゃないデータを借りてきて体よく説明しているだけじゃないですか?

もちろん、そうじゃない場合もあることは承知で書いています。
しっかりしたデータや数字によってはじきだされる理屈には眼を見張るものがあります。
科学者や数学者やデータアナリストは除いて、話を進めます。

ただ、いけかよの経験でいうと、わりと適当な理由を後付けで喋っていることは多いです。クライアントや友人を、安心・納得させるためには、「それらしい」理由は必要だからです。
自分の経験から喋っているという場合も同じです。経験ほど個人的かつ曖昧かつあてにもならず再現性もないものはないからです。「適当な理由」の域を出ないと思います。
「理由は?」と聞かれて「えっ!答え用意してない!(焦)」というときでも、とっさにそれらしい理由が口をついてスラスラ〜っと出てくることがよくあります。怖いですね。これはひとつの職業病とも言えましょう。きっと皆さんも同じなはずです、クライアントや上司を納得させなければ仕事は進みませんよね。

もちろん、嘘をついている意識はないですし、その相手との関係性があってのコミュニケーションの一環です。

でも、いろんなお仕事の場面で、その理由を述べなければならないときに実際に自分が「無理やり理由をこじつけている」という感覚があるのは否めません。
物書きのお仕事でもそうです。
これは言っちゃあおしまいかもしれませんが、「なぜなら〜」と述べなければならないとき、言葉にならない感情、言葉にならない感覚に、むりやり言葉をあてがっているときというのはあるのです。
そして、そもそも言葉にならない感覚なのだから、感じたその感覚を最適に表現する言葉というのは見つからないことのほうが多いと感じるのです。
じっさい、言葉にした瞬間嘘くさくなる感覚を覚えるときはあります。

でも「だってそう思ったんやもん」では形にならない。
だから、葛藤しながらもわたしたちはそこに言葉で理由をあてがうのです。
そして、適当にあてがった理由に、自分自身こそが納得させられていることは往々にしてあります。
なんかちょっと怖いですけどね。

VUCAの時代と言われているけど

ここ最近、日本がいかに衰退しているかという事実がことさらにクローズアップされることが多くなりました。
それだけ、マジでヤバいということなんだろうと思うのです。
実際マジでヤバいでしょう。

でもそれって、なにもかもに「理由」を求めてしまうことがひとつの要因のような気がしています。
先述の「自信の根拠」しかり、うまくいくという理由や根拠があるものにだけ投資をしてきたり舵を切ったりしてきたという背景が、あらゆる衰退を招いてしまったんじゃないかと。

わたしは関西在住ですが、大阪、兵庫、京都、この3府県はとてもおもしろい地域で、密接しているのに価値観が全く違って面白い。
起業に関してもそうです。
数年前に直接知人から聞いた話ですが、大阪出身なのに京都で起業した人がいます。経緯を聞くと
「大阪は『それ儲かるんか?』が先に来る。一方京都は『まあやってみなはれ』って言うてくれる。やから京都のほうがやりやすかった」と。
もちろん「やってみなはれ」な大阪の方もいらっしゃると思います。時代は動いていますから、大阪の投資家だってもっとこれから「やってみなはれ」て言うてくれるはずやんな!!

理由を求めてしまうとものごとって始まりもせず終わってしまう。「儲かる理由」を求めていたら、それだけで多くの場合はおじいちゃんおばあちゃんになっちゃうんじゃないでしょうか。

いま「VUCAの時代」とか言われています。
Volatility:変動性
Uncertainiy:不確実性
Complexiety:複雑性
Ambiguity:曖昧性

つまり「やってみんとわからん」っちゅうことですよね。

みんなわかってるんやん!!!
根拠とかないってわかってるんやん!!!
理由もわからんってことわかってるんやん!!!!
だって世の中やってみんとわからんことばっかりやん!!!!!

そんな気持ちにさせてくれるワード「VUCA」。
これってある意味勇気です。
希望でもあるといけかよは思っているんです。

ワクワクすっぞ

いけかよは、理由も根拠もないお仕事を今わりとしています。
もちろん、経験や調査によって語れることはあります。
でも、これだけ変化が早くてみんなが不安で不透明な時代に、自分の経験やとか調査結果とか、そんな「過去のもの」がどれほど有益なのかには疑問符がつくな、と思いながらやっています。
そして、いただいたオーダーが難しい場合には正直に「やってみないとわからない」と言います。
それをわかってくださる方とだけお仕事をしています。ありがたいことです。
もちろんある程度の見通しは立てないといけませんが、でもやってみないとわからないことってわくわくしませんか?
それこそが「理由がない」という状態。
ただただ、「今までやってなかったからやる」という状態。
やりながら「ああ、このために自分はやってきたんだ」と思えるものを探求する状態。
理由は始まりじゃなく後からわかるもんなんです。それこそに価値がある気がするのです。

わたしが心から尊敬する方の言葉で「オラワクワクすっぞ」というものがあります。

彼はとってもとっても強い人です。
地球を救うし、なんなら他の惑星も、時空を超えた「あの世」までも救っちゃいます。
でも、彼には戦う理由がないんです。守りたいものもないんです。嫁子供はほったらかしです。
ただただ、強くなりたくって、自分よりも強い相手と戦いたいという好奇心だけで生きているんです。そして時にケンカを売られるのでそれを買っているだけなのです。
(どうやって生活してるんでしょうね。ときどき思いを馳せます。ファイトマネーとかは出てない気がするんですけどそこをツッコムのは野暮だと思うんでこのへんにしときます)

でも、わたしはその「理由のなさ」に憧れるんです。
彼には戦う理由も倒したい宿敵も守りたい存在もありません。だから彼の旅は終わらないし、彼がバーンアウトすることはないんです。
わたしの「理由がないこと最強説」は彼に端を発しています。
理由がないということは、欲や願望もないということ。こんなにピュアで尊いモチベーションってあるんでしょうか。そのピュアさで、結果として世界を救ってしまうのです。

自分も彼のようになりたいと思います。
でも、凡人のわたしたちは、不安だし怖いから、何かにつけ理由をつけるし理由を求めます。動き続けるのは疲れるからゴールを求めます。でも、その理由が間違っていたら?ゆがんでいたら?意図されたものだったら?

チャレンジには理由はいらない。
諦めることにも理由はいらない。
誰かを好きなことにも嫌いなことにも理由なんていらない。
海賊王になりたいとか妹を助けたいとかの理由もいらない。

そんな「理由」を超越する「直感」とか「好奇心」とか「衝動」こそが、ほんらい物事を作っていくんじゃないかって思うんです。
なおさらこれからの時代は、わたしらオバサンは経験なんか語るのをやめて、黙って金だけ出して若い人の邪魔をしないほうがいいとすら思う。
ただただ、なんか「コレ」な気がする。的な、そんなフィーリングだけで世界が回ったら、どうなるんやろう?

なんかわからんけど、みてみたい。
なぜなら、オラワクワクすっぞ、的な感じがする未来だから。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

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