名は都合でつくられている2
自身の"名は都合でつくられている"のメモを読み返して再度考えた。
老子
あの内容は老子の名の解釈から考えてみたけども、少なくともその名から良くも悪くもなるってのが意味合いとしてまずあって、もし仮に名を一切つけないと何も発展しないからゆっくりやりましょうねと現代風に解釈した。
LGBTQ
海外ではLGBTQのデモが全員全裸でおっさんがおっさんのおしっこを飲んだり、そこらで男同士がセックスするというもののデモの過激さが悪化した内容から、結局その当事者が差別されるという状況になってるという理屈から、それはその名をつけたのがその起因ではとして捉えた。
もし適度に放っておいて、じわじわと当事者らの住みやすいものに変えていったら、あれ程に過激にはならなかった。
何もかもを多様性という簡単な言葉で全てに対して話題にするというか、そのひとつのその単語、LGBTQといった名を出したことで大きなムーブメントのような、その流れに乗るその過激さが激流のように変化した中で、その主張はその当事者が考える通常の状態や倫理観などを過度に求めるというか、通常その所謂ノンケと呼ばれる当事者でない人で差別される側でもあそこまで「自分を理解してくれ」と主張するのはおかしいのだから、その平等性を主張する内容の偏りが変ですよとなってる。
素質
人には才能と呼ばれるあらゆる要素があって、生まれながらの性別違和をある種才能と捉えた場合、過去に男の娘ブームがあったように様々な容姿の最先端に向かったその当人が捉えた欠点はその時点で逆転もしている。
であるから最後の展開というか、合成の誤謬の内容に向かった。
日本の良さはその大人しさにあるでしょう、デモにしても暴れたりしない、かといってそのデモが効果的だった試しも無いに等しいが、冤罪事件等々で解決した事例もあることからそういった大人しさ、清潔さ、そういった要素は良い部分でもあり発展しにくい要素でもある。
といいつつ自身は統合失調症の症状の悪化に伴って忌み嫌われる存在として認識され、村八分のような状況になってはいるけども。