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名は都合でつくられている


名は一部の意味を薄め一部の意味を強める

老害という言葉がある、それは元は無かった言葉だか誰かが老人は害悪だとして広まったのか広めたのかは定かじゃないが、その言葉が生まれる事によってその対比として若者は優れているという意識が生まれる。

しかし、ここにその老人がいる事でその若者が生まれているという意味合いが薄れてしまう。

では逆に若害という言葉が生まれたとする。

そうなれば老人が優れているとして未来を担う若者が害悪であるという意味合いが強くなってしまう、こうやって人というのはわかりやすさを求める傾向にあり、曖昧性を理解しにくい、よってその相反する善悪を決定する、これは名は体を表すという意味合いと同じと捉えて良いだろう。

鈴木という名字は日本国内で広まった、ネットスラングにもなった「たかし」もそうだろう、その名は特別性が無いというわかりやすい分野に入り、平凡な名であるという認識に入る。だが、その名がここまで広がったその歴史の否定をする事に繋がり、寧ろそこまで広がった名は平凡というよりは考え深い要素がある、その要素を想像しにくいからこそ名字でない名を目立たせる行為に繋がる訳だ。

例えば鈴木 天空海と書いて「すずき あくあ」といったそういった読みにくさを生むきっかけづくりにもなる。

こうして一部の意味を薄めながら一部の意味を強めることで考える事を放棄してしまう要素にもなる訳だ。


名が存在しなければ全て同じ意味

仮にこの世に全ての名が無くなれば全てが一になり善悪さえも無くなり多様性も同時に存在する、そもそもが善という言葉があるから悪という言葉があるのだから、その要素で最もわかりやすい要素に特化する事で曖昧性は省かれる事になる。

名が無くなれば曖昧性の回避に繋がる最も楽な方法なのだが、その名を明確にしたいとしながら曖昧性を増やす事で多様性を見せながらその実、そのことで偏りを示している。


LGBTQ

当事者はこの話題すらされたくないだろうという前提で書いていく。

多様性というのは響きこそ良いが、その当事者からすれば新たな差別を生むうっとおしい要素、そもそもが人は曖昧性を理解することが困難であり、勿論理解はされるべきだと思うが、それを急ぎすぎることでジェンダートイレが生まれ、その中で偏りを見せた。

もしジェンダートイレを多様性に取り入れたいならじわじわとゆっくり実行すべきであり、ここに知らない文化のわからない要素、その曖昧性の理解が通常間に合わない。

ゲイ文化にハッテン場があるのは周知されているが、そこにリアリティがない分、ジェンダートイレという要素ではそこに出会いの要素やハッテン場化が予測されることに想像が働かない。

タイでは友人が5人入れば1人や2人必ずLGBTQが加わる、そこまで浸透しているとジェンダートイレがハッテン場化しようがそこで風俗の勧誘があろうが理解が追いつく、実際男子トイレはそういう場になっている。

勿論当事者らも全てがそういった存在でもなく、通常通りトイレを使いたいが、例えばその理解が追いついていない国民が大勢いる中でそのジェンダートイレを活用となると、差別や偏見の目で見られ、その活用は拒まれる。その理解が追いつかない他者からすれば新たな差別や疑問によって益々多様性とは程遠い要素に入る。

堂々と振る舞える環境にないなら、それはまだその段階に入っていない。

その当事者も通常通り生活をしており、ただ歩いているだけでその多様性という括りから適当な名をつけた他人に差別されたり、寧ろ偏見を増長させたりする行為に繋がった。その流れがジェンダートイレという名を生み、その理解がまだされていない段階で始めたことに問題があったから理解も活用もされない。

多様性というのはその割合がある程度大きくなってから実行すべきだし、その母体に合わせて少しずつ広げていく意識こそが多様性という意味合いをしっかり持たせることができる。


ジェンダートイレ

もし今からそれを企画するならまず多目的トイレを増やすところから始めて、そうして母体数が増えてきた頃合いから理解が及ぶとしてその多目的トイレをジェンダートイレにするといった試みでないと上手くいかない。

男女のトイレ以外に多目的トイレを2つ作るだけでいい、それだけでのちにそのひとつをジェンダートイレとして名を付け替えれば良いだけであって、当事者らも活用しやすくなる。

当事者でない者も納得しやすい。

広くさせようとして狭まっているのは理解が広がっていないのが現環境であることの理解がされていないからだ、名を付けることで片方の意味合いが薄まり、片方の意味合いが強くなる、それは差別を生む要素にもなり得るし、その曖昧性の理解からも遠のくことに繋がる。


性別の違和感

女性の風呂場に自称女性の生物学的には男性の方が入るという問題は、そもそもがそこに問題の定義があったのであり、その活用の指摘がせれていないという根本の問題だ。

トイレと風呂場ではかなりの差異があり、密接度が違う、排泄行為は生理現象だが、女性特有の化粧直しもあるが最低でも生理現象という名目はある。だが風呂場は毛色が違う、通常無料で使える公共の風呂場という意味合いでは無いし、有料で且つそこに楽しみを持って活用する場が提供されている施設という括りだ。

それなら単純にその活用を止めれば良いし、生物学的に男性は男性の場へ、女性は女性の場へ、ジェンダーはジェンダーの場へと提供すれば良いだけであって、態々別の場からとせずとも問題提起されている場から解消すれば良いだけだ。


差別とする当事者の声は一部だと捉える

その風呂場において通常の広まりをみせていれば、そのジェンダー風呂は利用しやすい。かといって現段階だとそのジェンダー風呂が仮に作られても利用されないだろう、そこに入ればそういう人なんだと差別されるから。

だからこそジェンダートイレからという発想ではなく、多目的トイレを増やすことから始めるべきとなる、そうして母体数が増えて理解が追いついてから多目的トイレの一部をジェンダートイレに、その後にジェンダー風呂とすれば活用しやすくなる。

端的にいえばジェンダー側に我慢してもらうしかないが、意識させれば差別と騒がれやすい印象に当事者が入る、変に期待や意識をさせれば差別とも捉えられる。

名をつけなければ性別違和がない者が安心できる要素と、ジェンダー側が差別されにくい環境としてバランスは取れる。

名をつけた時点で問題として定義される。


事実

そもそもがその当事者らの過半数はこう思っている「ほっといて欲しい」と、それぐらいにその界隈は差別を受けていたし、その意識が「理解されたい」に入ったのはまだ理解されていないからだ。

事実に基づいて新たなものを用意しなければ新たな問題になるだけだ、理解されていないという事実が答えなんだから、まだゆっくりとその場を提供しなければならないと考えなければならない。

その当事者らがそのデモ活動を行ったのは、差別という言葉から生まれた偏りのある多様性、その都合よく解釈した曖昧性の理解の不足からきている。そうして慌てて用意した結果、新たな差別に繋がり、当事者達の不満が大きくなった、当事者以外の者が何を慌てているのかよくわからない。

ジェンダーが参加する競技などの問題も多様性という適当な名だけが重視された結果そうなっている、その問題提起されている場の解消はそこに別のベクトルからの話を混ぜているから大げさな多様性から期待したり、その裏切りから怒ったり憤りを感じたりする。

その妙な慌てた対応からそれを利用して活躍しようとする新たな多様性をも生んでしまうきっかけづくりとなってしまった。

このように名は一部の意味合いを薄くし一部の意味合いを強めてしまう。

名は安易なものじゃない。

別の話をする。

少数派は価値があるとされたり、差別をされる側だったりする、精神病の患者はその曖昧性の理解が無いと価値は無いし、かといって多様性という括りに入れればその社会に馴染めないことから新たな差別に繋がる。

その医療や制度や保証といった要素で保護する段階なのは想像しやすいからこそ、その社会にまだ参加できている、こういった想像しやすい要素は許容されたりするが、それでも理解はされていないでしょう。

過去の歴史から統合失調症という名がつくられてからはどうだろうか、それまでは気狂いといった要素で通常の社会に混ざりながら絵描きだったり他の分野で活躍したり迫害されたり殺されたりした、そうして多様性からその名が生まれ、警戒は強まり、そうして保護の対象に入っている。

ジャンヌ・ダルクやキリストなど、現在の医学では統合失調症とされている、病跡学と呼ばれている学問から過去の歴史において様々な人物を現代の医学から捉えればおおよそ何らかの発達障害であるとしている、コロンブスもそうだ。

名が生まれたことによって病にまで発展する、勿論そこにその要素はあったが現代ではもはやその要素は価値などあまりない。

発達障害という名は利益が少ない医者からつくられている、そういった多様性をつくらなければ売れない医者は生活が出来ない。多様性のおおよそはその都合からつくられている、マジョリティの都合から生まれるその要素は新たな問題を生みやすい。

場が豊かになればなる程に僅かなものに違和感を覚える機会が増える、生活すらままならない時代だとその機会すら少ない、余程の争い事が無いと生まれにくい、そうして新しく生まれる名をその都合からつくる。

暇ができたことで様々な多様性が生まれた。

もし本当に多様性が大事であるとしたいなら、その母体数から図りその事実から基づいて準備し用意しなければならない、これを差別だと言うのもまたその多様性という名からその都合によって発生している。

その病の当事者がこう発言したとする「ならば私達には人権が無いのか」「それは差別ではないか」と、間違いなくそれは差別ではない。寧ろそこに強引に多様性を持たせる方が新たな差別を生むし、母体数が少ないということはそういう事実であるし、さらにそれに対してその悪い部分にだけ目を向けている当事者の捉え方がそもそも差別的な思考だ。

どちらにもメリットデメリットがある、それは思考としては平等でしょう。

個体差の知能や才能とを混ぜているからそういった解釈になる、そもそもが健常者でもそこに差があるのは同じな訳で、その病でも活躍した数々の著名な人物はいくらでもいるし、健常者で活躍できない者もいれば活躍した者もいる。

知能と才能とを病や健常者との要素に結びつけているという矛盾に気付けないからそう考えているだけだ。

病は病であり、知能は知能、才能は才能であって、老害という言葉は老害という言葉で、若害という例え話は若害という例え話、混同すると対義語を印象でつくり、勝手に解釈してしまう。

これは過半数がそうで誰にでも当てはまる、知能が高くとも低くとも同様にある、才能の良し悪しも関係無い、誰にでも混同する要素になっている。

科学的根拠や医学的観点などから紐付けされるのならまだしも、その印象のみで名から連想されるそれに何の根拠もない。

そして過半数は母体数が多いということから判断するという事実、実際差別される側になればわかる事実、マイノリティであればその事実はわかる、しかしその事実があってもその印象からマイノリティ側も同じ振る舞いをしたりする。

だからこそ名は体を表す。

だからこそ印象は重要とも取れる。

特定のワードだけで怒り出したりもする。

ここまで書くと優生思想と捉えたり、差別的だと捉える人もいるだろうが、それも印象、通常これをあらゆる人に語れば嫌われるだろう。

そして恐らくはこのタイトルにおける内容を語っているということも聞いた側は忘れる、それも印象。

もしそれにその名がついていなかったらどうか、特定の名で怒ったりする要素すらない、その行動に対しての倫理観を求めるでしょう。


合成の誤謬

全体としてバランスを取ることで他の突出した要素、あるいは劣っているように感じる尖った要素、圧倒するマジョリティによってマイノリティに問題が生まれるパラドックス、多様性という言葉がなければその問題も各々の箱にしまわれてそれ程に脅威とも感じなかっただろう。

名は各々の都合で生まれている。

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