決められた運命であってもそこに自力は存在する
時間的にも空間的にも我々人間は不完全な存在。
真理を知るには荷が重い
どれだけ歩みを進めようが私達には限界がある、瞬く間に時間という概念は過ぎ去っていき、そうしていつかは老いて死ぬ。その途中で何かに殺される可能性もあり、如何に注意を払おうとも突然の不幸には抗うことは出来ない。
そんな有限な存在が真理を知るなんておこがましくもあり、まして知っているとするには人間は余りにも愚かだ。
その根源を知っているのは我々人間を遥かに超越した存在にしかわかり得ない、その存在とは我々でいうところの"神"という存在でしょう。
これは怪しい宗教の勧誘をしようと企んでいる訳ではありません。
それはつまり、勿論その神の存在を知っているとして肯定しているのでは無く、有限な存在にとって理解不可能なことそのものが『神』であると例えて自然だ、という理屈です。
概念は人が勝手につくり出したもの
リンゴは確かにそこに存在します、成熟すればその色は鮮やかな赤を基調としたフルーティな香りを放つ果実です。触れようと思えば触れれるし持ってみればしっかりと物体として存在があると確保でき、食べてみれば甘くほのかに酸味があり食感がある。
それは体内に取り込まれては分解されて栄養素として体内でろ過されては吸収され、そうして余分なものが排出される。
ここまで理屈に適っているのだからそこに明確さがあるように感じる。
しかし、これは我々有限な存在からみた"印象"のようなもので、そのミクロの世界では物質のように感じるその存在全ては原子、素粒子がそこに纏まりやすいから纏まっているだけである。
この概念は神という存在からすればリンゴではないでしょう、原子や素粒子といった存在でも無いかもしれません、だとすればその手にあるリンゴを真理として確定させることさえままならない訳です。
こんな単純なことさえわからない我々有限な存在が、真理を知っているとは到底出来るはずもないでしょう。
謙虚にならざるをえない
故に我々人間はあらゆることに謙虚にならざるをえない、人に対してこうしなさい、それをやめなさいと断言することは実質出来ない。少なくともこうするとこの世界、あるいは人間社会ではこうなるでしょう、この括りが限界値で、その限界値に達するにもそれを確定とまで出来ない浅はかさが人間にはあります。
自由意思は無いが自力はある
人の行動は脳で判断するよりも前に決定されています。(※上記リンク)
しかし、自力は存在する訳です、愚行を行うことも出来るし自ら墜落することも可能だ。それは神の存在からすれば決定されているのかもしれないが、その事も明確には出来ないことから、少なくとも謙虚に振る舞うことは自力で行うことが出来る筈です。
しかし、その賭博の依存、アルコールの依存、そういったものに抗えない人は少なからずいる訳で、そこから抜け出すことは容易ではなく、それ程に人という存在は弱い存在であると理解出来るでしょう。
つまりは謙虚に振る舞うことも弱い存在であるから難しい訳だ。
今、この世界にはあらゆるものに依存しなければ生活すらままならないのも事実であって、電気、ガス、水道、それはネットであったり、あるいは食であったり、悪口を言う癖であったりと様々ですが、しかしそこに対して自力で謙虚に振る舞うこと"だけ"なら可能なぐらいには人には自由意思はあります。
それはたいして難しくもなく、例えばアルコールの依存ならば必ずこう思います、「また飲んでしまった」あるいは、「控えなきゃいけないな」といった謙虚さを持つことは誰にでも出来る訳です。
これはその"制御は難しく"とも悪癖であると理解さえすれば謙虚さぐらいは割と簡単に持てるという意味です。
しかし、人は中々謙虚になることはありませんね、何故謙虚になれないのかというと、それが悪い事であると理解するのが当人にとって難しいからであって、それが習慣づいてしまっては脳髄から条件反射のように自然に悪癖を行ってしまうからだ。
習慣というのは筋力のように働き、それが元に依存になりもすれば良い習慣としてバランスが取られるものでもあるように、そこには必ず自力は存在します。
人の足を引っ張るのも習慣で筋肉のように発達するし、自ら何かをつくるなりするその行為も習慣によって発達します。
それが仮に神からすれば運命のようなものであったとしても、そこには必ず自力が確かに存在はしているでしょう。