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小説「実在人間、架空人間」第九話

 無意識か。

 心理学者、カール・グスタフ・ユング。

 彼は『集合的無意識』といった新しい概念を創出した。

 人間は無意識に従っているとユングは考え、それを元型と言った。元型とは知覚や認識を導くものであると同時に本能を導く役割も持ち、人間に備わっているとユングは説明している。

 さらに、タイプ論、ペルソナ、アニマ・アニムス、シャドウ、コンプレックス、といった数々の人間における無意識を分類した。

 意識が内部に強い傾向の人を内向型とし、意識が外に向かう傾向の強い人を外向型とする。そこから感覚型、直感型、思考型、感情型に分け、人間の自己実現の過程をタイプごとに分析した、これがタイプ論だ。

 人間の外側に現れる心理的な見せ方をペルソナ、さらに女性的な側面をアニマ、男性的側面をアニムスとした。身体的な性別では無い、もう一方の性が普段は無意識を構成、それが恋や愛、男性感、女性感を示すのだ。

 人格として、必ず生きられなかった精神が存在するとユングは考え、それをシャドウと呼び、個人的な影と、普遍的な影とを分け、普遍的な影は道徳に反する概念であると定義した。

 衝動や欲求、心理を構成する要素が無意識に混ざり合って形成された観念の複合体、それがコンプレックスだ。この言葉は、今私達の共通用語となって受け継がれている。

 幼児期に父親や母親にむかう心理の抑圧エディエディプス・コンプレックスがある。それは、劣等コンプレックスを理論の中心に置いていて、劣等コンプレックスの克服を通じて人格が発達するという理論が現代に受け入れられた。そのため、コンプレックスが劣等感を表す言葉として定着しているのである。

 私はユングが称えた数々の言葉を思い起こしたが、今の無意識とはまったく別のものだ。結論、これは無意識では無いと言えた、私はそう感じたのだ。

「ねえ、それにしても不思議な所だよね、ここって」

 そう言ってガクが一本の木の前に立った。

 ガクの手の届く所に太い枝があり、彼がそれを手に掴むと、僅かな木の凹凸に足を掛け、登った。が、中腹辺りでバランスを崩し、上までは届かなかった。

「うーん、もっと上から見れたら色々分かりそうなんだけど、素手じゃ無理かぁ」

「そっか、確かに上まで行ったら遠くまで見渡せるやんなー」

「短くていいからロープが二本あれば行けると思う」

「ロープかー、せめてその代わりになるもんがあったらええけど、こんな場所にそんなん落ちてる訳も無いしなー、って何やそれ!?」

 眼鏡がずり落ちた。

「ガクはこの木、ロープ二本で登れるんか!?」

「うん」

「んな、アホな……」

 ロープ二本で木を登る技術は確かにある。

 まずは足縄を用意する。

 これはその名の通り足に縄をかけるのだが、このとき同時にもう一本のロープを用意する。そのロープはしっかりと木に対して体を回すようにして腹から少しはみ出た状態で輪っかになるようにロープを結ぶ。輪ゴム一本を中指を木として捉えて人差し指を人として捉えて二本指にひっかける要領だ。次に足縄で固定された両足首から下のつま先を木の底に対して逆ハの字状にして引っ掛ける。この時点ではまだ地面に足がついている。

 この時、体を通していたロープを木に引っ掛ける形で上にずらし、と同時に飛び上がって両足を木に引っ掛けるようにして逆ハの字にした両足首で木に足を固定。その時、体に回していたロープが上半身を固定する訳だが、ここで上半身を木から離すようにして木と人が丁度コンパスを逆さまにしたような形を取ることで、逆ハの字になった両足首で支えながら体全体が木に固定される。そして再度体に通したロープを木に引っ掛けて飛び上がるようにして上にずらし、またも足を木に引っ掛けて登っていく。

 これを交互に繰り返す事でロープ二本で木を登ることが可能だ。

 足縄だけで登る方法もあるが、これは比較的細い木に対してだけ有効で、木に対して手が回らない程の太い木は登るのには相当な腕の筋力が必要になり、腕の負担となるので実質不可能と見ていい。

「でもあなた、曲芸の達人よね、出来なくもないかもしれないわ、短くてもいいのよね、ちょっといいかしら?」

「なーに」

 女は自身が持っていたバッグの紐を取り外して、それをガクに手渡した。

「それ、ロープの代わりにならないかしら」

 松葉がガクと女を交互に見やると、自身の眼鏡のブリッジを上に押し上げた。

「お、それいけそうやん、でもほんまに登れるん?」

「うん、多分いけると思う、ちょっと強度が気になるけど、でもあと一本足りないね」

「それにしてもあなた、ロープ二本だけでどうやって木に登るのかしら、そんな話聞いたこともないわ」

 女の問いにガクがにっこりと笑った。

「まあ、ちょっとしたコツがあるんだよね、何処かでもう一本見つけれたら見せてあげるよ、口では上手く説明できないや」

 それに対してハクが、

「ガクは頭悪いもんねー」

 と、言葉を付け足した。

「それはハクだって同じだろ!」

 少し怒った様子でガクが返す。

 ハクもその返された言葉に苛立った様子だ。

「何だよ!」「何よ!」

「まあまあええやんか、こんなん誰でもできる事ちゃうで、それに部屋の壁を登った時に見せてくれたあの技を見せられたら、嘘付いてるって訳でも無さそうやし、ほんま凄いわ」

 まったくその通りだ。

 普通ならロープ二本で木を登るなんて相当な技術が必要だ、そんな芸当通常なら無理だろうと考えるが、この二人なら難なくやりそうな、そんな気がしてしまう。

「ところでやな、二人は一体どうやってそんな事が出来るようになったんや?」

「父さんと母さんの劇団で育ったんだけど、今は雑技団にも所属してるんだ」

「そこで私達は学んだのよ、お金を稼ぐにはいっぱい技がいるからね」

 だとしても木を登る事何て容易では無いだろうが、何か別のものの応用技として存在しているのかもしれない。

「日本人では珍しいなぁ、活動は何処でやってるん?」

「うーん、そうだね、主にアジアとロシア、あとはヨーロッパもたまに行くかなぁ」

「というより、派遣されれば何処にでも行くわよ」

「へー、そんな海外ばっかり行ってるのに、めっちゃ日本語上手いやん、やっぱり何ヶ国語か喋れたりするんか?」

「うん、英語に中国語にロシア語、それと日本語もだから、合わせて4ヶ国語だね」

「凄いわね、あなた達」

「そんな事無いよ、学校は行って無いし、勉強は各国の言葉と少しの数学しか学んだ事無いから」

「ガクは数学じゃ無くて、足し算と引き算でしょ、割り算すら出来ないくせに」

 ハクがガクに悪態を付く。

 それにガクが憤怒して、互いが示し合わせたかのようにまたも二人の言葉が合わさる。

「うるさいな」「何よ」

 ここまでの話を聞くと、ガクとハクの壮絶な日々が想像できる。

 だが、それにしては二人共に凛としている。

 口調こそ幼さを感じるが、それは恐らく学校での集団生活から逸脱した生活。各国を渡り、劇団員という大人達に囲まれた経験がそうさせているのだろう。

 彼らには若くして働いて金を稼いでいるという自覚がある、二人は見た目や年齢に反して、しっかりとした社会人なのだ。

「取り合えず、まあ、あれやな、目標は出来たな」

 そう言って松葉は自身の眼鏡のブリッジを上に押し上げた。

「あと一本、何でもええからロープっぽい物を探すって事で」

「そうね、それが良さそうね、目標も無くだらだらと歩くよりはマシだわ」

 これで当面の目標が立った、仕事が増えたとも取れるが、これは良い事だ。

 人は平穏を求めているようで違う。

 悩みが無い事はとても耐え難く、例えば、金が無いのであれば仕事に精を出す事ができる、地位や名声が欲しいのであればそれに向かっての活動を活発化する事ができる、目の前に成すべき事がある状況こそが重要なのだ。

 逆に何も無ければ、無いものが悩みへと変換されてしまう。それは他者に厳しくなり、自身に厳しくなり、かつ自身に甘くなる。些細な悩みが構築されていく、他から見ればそんな些細な事で、となるが、それ以上の悩みが無い為に無いものが悩みに繋がるのだ。

『死が人を殺すというが、それは違う、退屈と無関心が人を殺すのだ』

 かのイギー・ポップが残した持論だ。

 争いの無い平穏な場所が産んだ、新しい病を彼なりに捉えた言葉である。

 負の連鎖は悩みの大きさに比例しない、むしろ反比例する。大きい悩みがあるという事は、小さい悩みが視界に入りずらい事を意味する。

 今、目標が出来た事で、当面の悩みが薄らいでいる。

 これは優しき事なのである。

 しかし……。

「じゃあさ、何人かで手分けして探そうよ」

「そうやな、それがええかもしれんな」

「あ、いや、待ってくれ、それは危険だ、それにロープが手に入っても木に登ってはいけない」

「ん、何や」

 松葉は自身の眼鏡の両方のレンズのフレームを片手で掴むようにして軽く上下させた。

「まあ、それなりに危険や言うのは分かるけど、真っ直ぐ歩いて真っ直ぐ戻るを徹底すれば、別に危なく無いんちゃう、それに木に登ったらあかんってどういう事や?」

「違うんだ、聞いてくれ、私からこの場所について話したい事がある」

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