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自分も自分の所有物ではない

この世の全ては相互依存していて独立して存在しているものは存在しない、自身の所有物でさえ仮のものであり、自分自身でさえ自身のものではない。


快楽には終わりが無い

資本主義において金銭は重要だと捉えたとき、それを所有したとしても終わりは無く、何処に幸福があるのかとすればその幸福を快楽と混同してはもっともっとと際限が無くなる。

今この世を支配しているのが上位に存在し、その所有物である下位の存在はその下位の存在がいることで上位が成り立っている、その下位の存在もさらに下位の存在によって生かされているし、底辺にいる存在は上位に生かされていることでその利害が成り立っている。

金銭の流れは必ず下位の存在がいなければ成立せず、買い手と売り手がいてその流れが成立することからその両方が肯定される。

その所有物は仮の姿であって、必ず買い手が存在しなければ成立しない。

上位もその下位から購入するし、売り手は下位にも存在する、そこに欲望が混同するときに欲しがっては別の分野からの幸福を望み、妙な趣向が入っては悪趣味が発生する。

余りに大きな権力を得たときにその不都合から他を殺す趣味まで存在するし、下位にもその欲望が存在し更なる目下の存在を殺してしまう趣味が生まれている。


退屈は死ぬより辛い

暇であるというのはそれだけで悩みが構築されていく、大正、昭和、平成、令和と続いた時代において長かったものは無く、江戸時代なら300年、弥生時代なら約1300年、縄文時代は1万4千年続いたとされている。

縄文時代において発見された遺体は特徴的で撲殺されたり刺殺された様子が殆ど無く、勿論古い歴史も相まってその残された遺体の入手率は下がるだろうが、これだけ長い期間継続出来たのはその時代の平和さにあるでしょう。

忙しくもあったその背景にはあらゆる発展もありながらもその土壌を築くのにも時間がかかった、そこに団結力が生まれたことによりやる事の選択の無さに加えて忙しかったこともあって退屈では無かった。


無料コンテンツの功罪

現代にはあらゆる文化が取り入れられてはコンテンツ過多となった背景にその欲望が存在し、売り手はその欲を刺激し、買い手はその欲求を満たし、絶え間ないドーパミンの過剰な反応の刺激から不足を感じてはさらに欲しがった。

忙しくもやる事が増えたことで暇が増えている、それは退屈さという相反する要素に過剰な欲望が入ることで悩みが増えている。面白いことへの追及からそれは差別にまで成り下がった、現代におけるその差別は過剰に形成された背景にあるのはそのコンテンツ過多による多様性でしょう。

そのコンテンツは過剰に増えたことで無料化され、その大量にある無料のコンテンツからさらに欲求が高まり、あらゆる悪趣味が増えたことで多様化してはその多様化によって職の種類が豊富になったことで行き場を見失い、過剰に求めてしまう悪循環が続きそれは現在進行形となっている。


農耕の功罪

縄文時代において稲作と農耕社会によって成長してきた社会は大きな役割が生まれた、狩猟中心だった生活から稲から栄養を得ては保存も利くその食の文化の変化は争いが自然と減っていった。

暮らしが楽になると新たな欲求が発生する、そうしてその探求心から新しい技術が導入されていく。

渡来人が日本に新しい文化や技術をもたらし、特に金属器や機織り技術が伝わり、鉄器の普及により石器は次第に使われなくなった。集落の成長と国の形成から弥生時代後半には大規模な集落が現れ、身分の格差が生まれては西日本を中心に小国(クニ)が登場し戦乱が激化した。

そうして長い歴史に幕を閉じた結果となった。


人の歴史は退化しているのか前進しているのか

人の歴史は浅く、昆虫や他の生物にその歴史で劣る筈が人は益々盛んになり、新しい技術は新しい欲望の達成でもあることから、その欲に際限が無いからこそ発展のように振る舞うがその実、それはある種の後退をみせている。

そうして過去にあったどうでも良かったものでさえ新しい悩みとして現代に捉えられ、個性は悪の振る舞いをみせ、発達障害やマイノリティは悪とされつつもそれは一種のファッション性にもなる多様性というものと混同されては病気とされながら悪用もされている。

俺は私はそこに理解があるから優れているでしょう、というよくわからない文化も形成され、もはやそれは何を意味しているのかと問われればある種の差別にもなり得ていて、理解なのか差別なのかファッションなのかと混じっている。

技術革新と語感や言葉の意味は良いものの、結局のところその革命は新たな悩みを増やしている。それは戦争という中にも導入され、あらゆる争いを増やしては言葉の語感で雰囲気で良いという偏った意識に向いている。

それは必ずしも良いともいえず、かといって悪いともいえない、この中間の思考がまったく入る余地もないのは、そこに過剰に求める欲望に過ぎないでしょう。


執着を捨てることは実質不可能

今の時代において余計な執着を捨てればその殆どの苦しみは解決するのだが、ここまで発展してしまってはどうしようもない、勿論これは誰にでも当てはまるでしょう。

例えばその電気、これを手放すことはもはや不可能に近い、水道も不便さを解消してくれているし、保存できる冷蔵庫、洗濯乾燥機、冷暖房、給湯器もそうだ。果てはそこに新たな欲求からワインセラー、燻製機、ヨーグルト製造機と多様にその欲求が過剰化していく。

それを一度手にしてしまえばそこから逃れることは出来ない。

ここに感謝するのも忘れてその欲求だけが高まっていく、そうして安価なチェーン店で横暴さえ見せる訳だ。

欲望に対して抑制しろとしていた仏陀の思想は今までの人の歴史を知れば本質をついているのだろうが、ここまで発展してしまうと過剰にミニマリストになるにも少々妙だ、全てを捨てるのは不可能に近いし、ならばせめて感謝の気持ちだけは忘れないで持っておいて損は無いだろう。

それは人に対しても、物に対しても、生物に対しても、一見してそれは恰好をつけているように見えて、この発展していった人の技術革新と功罪を含めて考えれば自ずとそれがせめてもの持つべき考えでしょう。

感謝という言葉の語感の悪さはその言葉の意味を省いたところにあるだけだ。

感謝をすることは今の時代、これからの時代において最も重要で最低限必要なものとなるでしょう。

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