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老境の稔りは前もって収穫された思い出と蓄えにある

若者が老年期を想像すると不幸と断定してしまう、当人である老人も退屈さから不幸を感じやすい、その問題は自然に従って理性的に生きればこれを受け入れることができる。


承認欲求から老いを恐怖する

10代なら20代を恐怖し、20代なら30代を恐怖する、これは謂わば大人に対しての不信感であり、まして老後を想像するとただ無意味に散歩をし、帰宅しては適当にネットなりを見聞きし、食べて排泄して寝るだけの人生、そうして目覚めては今日も明日も同じ日々が続くと不安がる。

未来に希望が無いと思えばそれすらも怖くなり、日に日に老いに対して絶望していく、若き日はその時々の一瞬の楽しさの欲求から欲望を探求する期間であり、それが叶わないと未来を絶望しては大人の不祥事を全てだと感じ、着飾っては苦悩する。

ネットで調べればその困難さを理解しやすく、諦め癖が根付いて無気力を生む、その世代の流れによって子供は大人に不信感を抱き、大人は過去を美化しては下の世代を未熟とする。

それらを省くと結局見た目を磨くことに全力を注ぐようになる、これは大人も子供も同じだ。

先が無いとわかると美意識のみが残り、ましてその美意識は老人になることを拒否する。


蓄えているという認識の欠如

老賢者の話を考察するにどうやら老いはその時代を体験した後から発生する蓄えた思考をする時間であるようだが、現段階でそれを想像すると今ある欲求と対峙するように感じるから不安になるようだ。

現代の見た目至上主義といういわしの群れに参加して群がっているとそれが全てと誤解する、100年続く可能性がある人生において定年期からは若者が支えている事実から一部の老人がそれに反発している、寧ろ支えられている老人側からするとどうやら意識が不安に傾くようで迫害されていると誤解するようだ。

その認識は若者にも影響を与え老後を不安がるし、その老人もそれに反発するから迫害されていると誤解する、これの繰り返しから互いに負の作用を持ち互いに不幸比べをしている。


老死を円熟と捉える

大人になれば学ぶという機会が減るように感じる、実際は大人になったからこそ学ぶ必要性もある、互いに「こうなってはお終いだ」と何故か不幸比べをして自分を優位に見せては実際はその自身がどちらともに先の未来を恐怖している。大人になって学ぶことをやめれば若者や流行りを否定し敵視するし、その大人を見た若者が敵視する、結局のところ事実から考えると社会を支えていたのが老人で社会を支えているのが若者である。

この事実は変わりようが無い。

実際のところ老人は身体が衰えるから元気が無くなって無茶をしなくなっているだけであって、割とその思考や行動は若い時と変化せず、だからこそこういった対峙があると考えれる。

ならば老後はその蓄えを思考する学びであると理解できれば程よい談笑が愉悦になるし、その自然、その哲学、あらゆる分野が趣向として趣のあるものへと変化する、そう捉えて良いと思えるだろう。


元気

老人でも現役の方は沢山いて、それらにある特徴は胃が丈夫であるということ、身体が丈夫だから活動出来ている、胃と脳は直結していて胃が丈夫なら脳も丈夫だ。それは遺伝でもあるだろうし日々の過ごし方や習慣にもあるでしょうが、全ての生物はいずれ老いるにしてもその中でも突出して現役である理由は丈夫だからでしょう。

その中でそれを見て学びに捉えられる要素に入りたいものだ。


大人も学ぶべき理由

その大人を見て育つ環境こそ子供が感じたり学んだりするものであるのだから、その社会を支えていくのが若者であるという事実から大人も学ぶべきと考えて自然だ。学問である学びとはその学歴を確保する為にだけあるのでも無いし遊びも一種の学びの要素になるのだから、大人が体験した前もって収穫した学びを含めてさらに学べばそこに深みが入り、決して損切りをされたりしない存在になる。

未熟と捉えるのも実は子供も感じるもの、大人だからといって未熟と下の世代に決めつける理由も無く、かといって大人を未熟と判断する必要性が無いのは、その状況づくりは結局のところその学びにあるからだ。

大人も子供も若者も結局はその学びにある、そこに状況が整っていると自然に利害が一致する、その環境にいるとどちらも良い関係に入る。失敗も成功も誰しもがあるし、不祥事も良い行いも誰しもが持っている、そこに不平等が現れるのは所謂失敗であって学ばずに繰り返した結果でしょう。


正論は弱者の為の唯一の武器

人は誰かに傷つけられるのを恐れる、その中でも正論はどうしたって変化のしようが無いのだから弱者だろうがその内容が変化しない。弱い存在だからこそ正論で武装できる、これは互いに正論は平等だからその敷居で勝負すれば弱者でも勝者に参加できるように感じる。

実際のところその正論が正しいとは限らず、悪意に正論が入ることもあるからそれは正論で武装をしているだけの要素となって差別したり攻撃したりする。これは大人も子供もどちらも使いがちだが、その正しさに酔いしれているだけで、もはや互いに正論で武装して攻撃しているに過ぎない。

正論の使い道を誤っている。


罪には段階がある

注意されるだけの罪、罰金が発生する罪、拘束される罪、投獄される罪、死を持って償わされる罪、このように罪には段階がある。ここに正論で武装すると注意されるだけのものがまるで殺人でも犯したかのように抹殺するように振る舞う。

そこに他者が介入していいとする理由は少なく、その行為は正論で自身の価値を上げているだけだ、これに学びが無いから大人が正論で武装する、それは弱さから来ている。

成功者をリスペクト出来ないのはただ弱いからだ、どうでも良い人間が注意されるだけの不祥事を起こしても「ああ、そうか」となるぐらいのもの、その数値を持った存在だけ否定するのはただの嫉妬と八つ当たりでしょう。


老人も子供も弱く強い存在

どちらも弱くどちらも強い、老いは衰え、子供は成熟していない、老いは蓄えがある、子供は未来を担う、どちらも価値はあるからそこに学びを入れたい。大人は老いから衰えを感じて正論で武装する、子供は成熟しきれていない為に大人の真似事をして正論で武装する、それがぶつかり合ったり団結しては他者を羨ましいとして排除しようとする大人、どうでも良いことを大罪として陥れていては学ぶ暇など無い大人、それを学びと誤解した子供が影響を受けては真似事をしてしまう。

子供は純粋だから大人の影響を受けるのだから、老後や老いに恐怖するなら子供も若者も大人も老人も学ぶことが最大の喜びとなるでしょう。

ここでいう学びは遊びも含まれている、一見してわかりにくい要素にも学びは入っている。

そうなると自然に従って生き、理性的に生きればたとえ老いたとしてもこれを受け入れることができるし、精神を訓練し知識を錬磨すれば体力的な衰えなど問題にならないとできる。この学びは死ぬまで継続でき、想像は無限で死ぬまでの有限であるからその探求が満ちていると死は円熟になる。

老境の稔りは前もって収穫された思い出と蓄えにある。

蓄えがあればたとえ衰えてもその蓄えによって保護されたり自身を守ったりもできる、それは知識でもあるだろうし物質的な蓄えでもあるでしょう。たとえ脳が衰えようともその蓄積されたものが良い作用を持つ、もし何もなければ死んだり殺したりもする。

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