みのミュージックの「にほんのうた」を読んだ
みのミュージックを結構見ている
見始めてからどれくらい経っただろうか。最初は「YouTuberがなんか音楽語っとるな」くらいのもんで、「なんぼのもんじゃい」と斜に構えながら動画を見始めたのがきっかけだった。
まぁ〜〜〜、詳しいね。その時見た動画は好きなアルバムを語る回とかだった。そこから一目置く事になる。
見始めたちょっと後にキラーコンテンツ「賛否両論」が始まったと記憶している。印象的なものだと「ジミーペイジはギターが下手?」という挑発的なタイトルの動画があった。よく言われている事ではあるが、これをきっかけに改めて自分の考えを整理した。下にあるリンクは考えた結果だ。
そんな感じで、今尚考える種を提供してくれるチャンネルである。
脳裏に過るジャップロックサンプラー
(以下敬称略で失礼)
そんな彼は「邦楽通史を作りたい」と口にするようになった。田中宗一郎との対談でもその話題が上がっていた。
タナソーとの対談で印象的だったのが「ジャップロックサンプラー」の評価だ。タナソーは好意的だが、みのは「クソ」と言ってのけた。この時の感想は前に書いた。
ざっくり言うと「ジャップロックサンプラー」は事実誤認が多いが、早い段階で日本のシーンをまとめようとした本であるらしい(読んだことがないので「らしい」としか言えませんが)。みのは事実誤認の罪を大きく見た。一方、タナソーはまとめようとした点を評価した。それが二人の意見の食い違いであった。
「にほんのうた」の前書きで「ジャップロックサンプラー」の名が出ていたのは、自分がやろうとしている事が上手くいかなければこうなるのだろう、という例として脳裏に過ったのかもしれない。
どういう雰囲気の本?
で、「にほんのうた」の話だ。期待していたが期待通りの内容だった。
何やら発売前から旧Twitter(現X)で「叩いてやるぞ〜」と息巻いている人々を見かけたが、そういう人からしたら拍子抜けかもしれない。何せ、扱う情報量に対して紙幅がないので、一つのテーマに対してそこまで深く掘り下げられないのだ。掘り下げられてないと揚げ足は取りにくくなる。得意なジャンルで揚げ足を取ろうとしても、高速で駆け抜けて行かれると取れない。
余談だが俺が取れた揚げ足は「中島みゆきは1790年代に売れてないし生まれてない」とか「吉田拓郎が『人間なんて』を延々歌い続けたという伝説は本人が否定している」といった程度のものだ。1つ目の足は「1970年代」の誤植で、2つ目の足はフォークジャンボリーのwikiに書いてあったから知ってたというだけだ(あくまでwikiであると強調しておく)。本筋とは関係ないので致命的ではない。
話のテンポは先程の通り、めっちゃ速い。次から次へと進み、場面が細かく刻まれており、時系列だけで話を進めるのではなく、ジャンルやテーマ毎に区切って話を進めるので読みやすい。なかなか飽きにくい構成というか、飽きる暇もなく次々進む。なので内容は良くも悪くも「浅く広く」といった本である。
まぁ、テーマと本の規模感から考えれば予想できた事ではある。しかし、ここまでお手軽に網羅的に日本の音楽史を捉えさせえくれる本は今まであっただろうか。価格や情報量が過ぎると手を出しづらいからこそ、浅く広くしたのだろう。
もしかしたら2750円でも高く感じる人はいるかもしれないが、個人的にはめちゃくちゃ「買い」である。名前だけ知ってるアーティストの立ち位置がわかったりするので、視野は間違いなく広がる。詳細が省かれていても、関連するアーティスト名をこれでもかと補足部分で列挙しているのでシーンのイメージは掴みやすい。力技っぽいけど。その中で興味を持ったシーンを自分で深堀りすればいいんじゃないかと思う。そんなきっかけをくれる本だ。
どういう流れでその音楽が生まれたのかを知る事が、何となく聴いていなかった音楽を聴くきっかけになる。それを幅広くやってる印象だ。
無茶振り的な感想
読んでみて感じた事と言えば、やっぱり日本の音楽を語る上では常に海外からの影響は避けられない、という事だ。それが通史を書きにくい原因だろう。海外の音楽にその都度上書きされてしまう。その中で日本独自の特徴を拾い上げ、繋げるといった感じ。どういった部分が切り捨てられ、どういった部分が引き継がれるかは自分の耳で判断する他ない。それでも具体的な邦楽の要素を語ろうとしたいのなら、音楽理論とかで説明する必要とか出てきそうだ。
邦楽の特徴を知る上で一番わかりやすいのは外国の音楽と比べる事だろう。具体例があると強い。例えば邦ロックとUKロックを比べても、一方はテクニカルでキャッチー(一概には言えない)、もう一方はシンプルで甘さ控えめ(一概には…)、そんな感じで洋楽と比較しながらであれば、より立体的に捉えれるのではないだろうか。邦ロックの影響を受けたら海外のバンドでも邦ロックっぽくなるのだし、それだけ特徴があるのだろう。しかし、俺にはそれを可視化する能力はない。ただ、感じるだけ。
比較言語学ならぬ比較音楽学みたいな事をするならジャンルを絞らないと現実的でない。比較するために外国の音楽まで調べなければならないのは勿論だが、その背景となる文化総体を相手取る必要がある。大変そうだ。
批判的な感想3つ
寸評というのに「トンデモ軍歌」というものを扱っている項目があった。「爆弾くらいは手で受けよ」という曲の歌詞が掲載されており、実際に聴いてみたらなんとまあ陽気な曲だった。この曲を著者は「本気で書いたとは思えない」や、「滑稽な音楽」と批判的に捉え、「作者があえて極端な表現を用いることで、過度な検閲を皮肉っているように感じてならない」と締めている。
曲からは確かに滑稽さを感じる。しかし、軍歌だからと言ってシリアスな雰囲気の曲ばかりでは気が滅入るのではないだろうか。歌詞の目茶苦茶な感じも「それぐらいの気概で行け!」といった、焚きつける意味合いが大きいように感じた。そういう意味では割と真剣に考えられた実用性のある曲に思えてならない。
まぁ、この曲の作者が戦争をどう捉えていたかを調べれば分かりそうな事だが、曲からはそう感じた。
第三章冒頭で「ララ唄」という言葉が登場する。曲中にラララ〜と歌い、“ラ”で埋める今尚よく耳にするアレだ。アレの元祖が「カチューシャの唄」であり、それが「ララ唄」と呼ばれたという話だ。
そこから話は「ララ唄」の影響下にある曲の話になり、具体例として、舟木一夫「高校三年生」、小田和正「言葉にできない」、スピッツ「ロビンソン」を挙げている。また、“ラ”の変種で“ア”を用いた、美空ひばり「川の流れのように」やクリスタルキング「大都会」も影響下にあるとしていた。
個人的にこの解釈には疑問が残る。「カチューシャの唄」の影響が後世の作品に直線的に繋がっているようには思えないのだ。そもそも「ラ」で歌うことは輸入品であるように感じるし、海の向こう側では絶えず存在してきた表現なのではないだろうか(調べた訳ではないので感覚的な考えで恐縮ですが)。「カチューシャの唄」世代周辺には直接影響を受けた曲はあるかもしれないが、「後の世代にまで」と言われると、ちょっと過大評価だと思ってしまう。「“ラ”で歌う曲の嚆矢」止まりなんじゃないかと邪推してしまう。
「カチューシャの唄」の「ラ」が何処から来たのかは知らないが、音階の名前で歌うときに一番歌いやすそうなのは「ラ」だろうな、とか思う。
第六章に井上陽水の「傘がない」が取り上げられ、歌詞も掲載されている。
フォークソングには主に社会的な事柄を歌う時代があった。しかし、吉田拓郎の登場から風向きが変わり、社会派じゃない私的な歌が出てくる。その流れで言及されたのが「傘がない」である。
この本の中では「傘がない」を「歌詞では社会的な問題よりも個人的な問題が優先されている」としている。しかし、この捉え方は賛同できない。井上陽水はこの曲で「個人的な問題を優先し、社会的な問題を見て見ぬふりをする、そんな社会」を歌っているのである。「それはいい事だろう」と歌う声から皮肉や葛藤を感じる。そう捉えると社会問題の色合いが強い曲に聴こえるのではないだろうか。
当時、この曲に対して「社会から目を背けた逃避の歌だ」という非難があったと書かれていたが、その手の批判をする人は言葉の意味ばかりで意図を捉えていない。井上陽水の視点は地に足が着いている。「認識されていない事が問題」である問題の存在を仄めかす。
とはいえ、社会的な詞から個人的な詞へというテーマで挙げるにはうってつけの曲ではある。
上の3つの感想は何も参照せず書いているので、ただただ直感で言ってるだけである、と保険をかけておこう。卑怯者です。ま、揚げ足か。
「にほんのうた」の目的
この本の目的は、前書きにある通り「日本人が自らの音楽文化について知識武装し、攻め・守り両面での立ち位置を自覚する必要がある」という事である。物々しい書き方だなぁと思わなくもない。著者は日本人が日本の音楽に対する理解を深める必要性を訴えている。
過去にあったシティポップの逆輸入的評価に関する動画でも、その必要性を訴えていた。個人的には「別にいいんじゃね」と思っていたが、その後の東京オリンピックの開会式で、自分たちの文化を発信するには自分たちの文化を理解する事が大切である、という事を遅ればせながら思い知るハメになる(ゴタゴタで野村萬斎、椎名林檎らの理解者役がいなくなった印象)。実は著者とは意見が合わない事もあるが、こういう事があるから目を離せないのだ。
批判として上がっていたのは「ただ調べた事の羅列じゃないか」というものがある。まぁ、それは俺も思った。しかし、自分で調べるのが面倒なのだ。だからこそ手軽に知ることが出来る本が欲しい。知識へのハードルを下げる事が、この本の目的達成の鍵だ。
彼自身、自分の出来る事に「間口を広げる」と書いていた。「軟派」かもしれないとも自虐的に書いていた。それでも誰かがやるべきだし、やって良かったと思う。底上げときっかけは大事だろう。「自分が若い頃にこういう本があればなぁ」と思う人も多いだろうし、若い人は読んで損はないからとりあえず読んだらいいと思う。
暴論的な〆
正直、この本が後にどう評価されようが、個人的にはどうでもいいと思っている。最悪の場合「事実誤認が多い」なんて事になっても構わない(大丈夫だろうけど)。だとしても俺はこの本を十分活用できるからだ。客観的な正しさより、この本の広範な情報から自分の好きな音楽を見つける事ができれば、個人的な目的は達成されたと思える。
「ジャップロックサンプラー」の内容がどうであれ、前書きに名前が出るくらいだから、著者にとって、「にほんのうた」を書く為の何らかの影響を与えたのではないだろうか。本人が悪書と捉えたとしても糧にしたのなら無意味ではなかった。
好きな音楽見つけたいだけならディスクガイドでええやん、と言われるかもしれないが、歴史の流れで知る事が聴く事のモチベになりうる事だってあるだろうに。同年代の人が頑張ってたら応援したくなる気持ちも正直ある。
これを言うと先ほど書いたこの本の著者の目的に反するかもしれないが、個人的には誰もが批評的視点を持つ必要はないと思っている。音楽の知識は良い音楽を見つける事のオマケに過ぎない。
懺悔?
と、まぁ見返して思うが「恐らく失敗している部分がある」という前提で語ってしまっている感があって申し訳無い。失礼な話だ。発売前からそういう見方をしている人々も多い。
著者は出る杭を打つ風潮を「風通しが悪い」と表現していたが、ぶっちゃけ著者に対する「風当たりが強い」の方が正確なんじゃないかと思う。しかし、そういう気持ちも分からなくはない。実際羨ましいと思う人も多いだろう。音楽に詳しく、アーティストとして活動し、楽器が弾けて、批評家として本を出し、業界との繋がりがある、ビッグネームと共演、草野マサムネに曲を褒められる等など。音楽好きにとっては最高の立ち位置のように思える。
しかし、人には人の苦労があって、そこに至る訳だから表面的で美味しい所だけ見て羨んでも仕方がない。直接的には言わないが遠回しの嫌味が滲むジメジメした嫉度の高い界隈になるのは避けたい。