「今日の芸術」から岡本太郎の揚げ足を取る

 「今日の芸術」という示唆に富んだ本がある。いい本は大概示唆に富んでいる。芸術関連の趣味にこだわりを持った人は読んでみるといい。特に、やたらこだわりが強い人は読むべきだ。そんなこと言わなくても既に読んでいらっしゃる方も多いか。
 そこには共感というか、漠然と自分の頭の中で渦巻いていたものが明快に書かれているようだった。読み進めるほど「それだ!」と頷きたくなる、そんな本。まあ、ちょっとストイック過ぎる感じもしますが。で、そんな尊敬する岡本太郎に噛みつこうという試みをしようというのだ。理由は音楽が好きな一個人として。

八の字


 先に「八の字」という岡本太郎が生み出した言葉に触れる。これは批判的な意味を持つ。「八の字」とは富士山の絵の事を指しているが、別に富士山の絵そのものが悪いという訳ではなく、含みがある。床の間とかにある「それっぽいだけで内容の無い絵」に対する批判的な意味の言葉だ。
 おそらく、岡本太郎が「芸術」と認める範囲はとても狭く厳しいものだ。それは「どの時代に作られた作品であるか」という要素も含まれるので、一昔前の芸術を今やっても彼の定義する「芸術」からは弾かれるだろう。というか、そんな事をすれば怒られそうだ。

岡本太郎のストイックさ


 彼は芸術に対し、常に新しさを求めている。芸術家だからそりゃそうだ。新しさとは「それっぽい絵」とは逆の「なんじゃこりゃ」となるような絵だ。著書の中にも「わからない絵」という項目があり、本当の芸術はスッと頭の中に入って来ないものなのだという。「なんじゃこりゃ」となりながら作品と対峙する。作品が本当に新しいものならそういう反応になるのだ。
 もし、新しいと自称するが簡単に受け入れられる作品があれば、それは部分的に新しいかもしれないが完全には新しくない。本の中では「アヴァンギャルドとモダニズム」で触れられる。ここでは「モダニズム」は新しい雰囲気で大衆にちやほやされるものとして、「アヴァンギャルド」の対比として用いられている。新しい雰囲気の作品は、本当に新しい作品のエッセンスを薄めたようなものだと言う。「にせものだけに、よくできています」と、なかなか辛口。最前線の芸術家の視点はそう見たのだ。

岡本太郎の三味線音楽評


 噛みつくポイントは音楽の話が出てきたときだ。どうやら日本の三味線音楽が好きではないらしい。中国、南アフリカ、南洋の未開な土地の音楽には「音楽性が感じられる」と言っているのに対し、日本の三味線音楽には「あのうらぶれた非音楽的な節まわしは他にはつうじないと思います」と酷評。辛い。
 とはいえ、好みとかは各々好きにすればいいことだから「三味線音楽を否定するな!」とかいう感情は全く無い。合わん人は合わんものだ。なんなら普通の人より極端ではっきりしたところがあるのは、むしろ芸術家らしいとすら思える。しかし、岡本太郎のイズムらしからぬ言葉が混じっているように感じた。それは「非音楽的」という表現だ。
 「八の字」は表面的で無内容な「絵画的な絵画」に対する批判だったのではないか。それなのにある音楽を否定する際に「非音楽的」という言葉を用いる。「非音楽的な音楽」の否定はその逆に位置する「音楽的な音楽」の肯定、つまり音楽における「八の字」を肯定しているように聞こえる
 音楽以外の芸術の世界では「八の字」に厳しい岡本太郎も、音楽の世界の「八の字」には優しかったと言えるかもしれない。

 とは言え、岡本太郎だ。重箱の隅をつつくような話でした。彼の凄まじさはこれしきでは動じない。これを言うと元も子もないが、噛みついたポイントより彼の「芸術」という言葉の定義に対するストイックさの方が興味深い。


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