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■ 其の111 ■ 『個人的なユニクロ主義』ほぼ日ブックス第1号は、2001.11.1 の発行
🔣この4月から、元生徒が東京で新卒社会人生活を始めます。
今度会った時に、この本を欲しいと言ったら、あげようと思っています。
渡したらもう見られなくなると思い、読み直してみました。
タイトルは、『 個人的なユニクロ主義 』
株式会社ほぼ日の社長 糸井重里さんと、ユニクロの創設者 柳井正会長の対談を掲載したものです。
糸井さんは1948年、柳井さんは1949年の生まれです。
その中から抜粋して紹介します。
🔣P47より
糸井 大学、早稲田ですよね?
山口県から出たかったんですか。
柳井 山口には山口大学ぐらいしかないので、
できれば東京とかそういう、
いろいろな大学のあるところにいきたいなあ、というか。
高校の時の成績が悪かったものですから、
みんなに「すべる」って言われてました。
糸井 その時も、成績は中の下でしたか?
柳井 高校の時は、下の下だったんじゃないですか。
高校1年の時の成績が、すでにものすごく悪くて、
「いまのままでは落第しますよ」
と担任の先生に言われまして。
‥‥‥ぼくも腹が立って、学校の帰りに
わざと通知表を落としたんですよ(笑)。
そうしたら、人に拾われましてね。
🔣P60より
糸井 いま聞いていてふと思いましたけど、
柳井さんという人が育っていく時って、
物理的にも精神的にも、
やはりまだ、戦後が残っていますよね。
柳井 ほんとうに戦後でした。
昔の商店街は、終戦後のヤミ市の延長線上なんです。
ぼくの小さい頃にはまだ、たたき売りの店だとか、
昭和20年代や30年代には、
まだまだ、いろいろと残っていましたね。
それから炭鉱の町だったので、
人が荒いというか、気性が激しいんです。
だからぼくらが幼稚園や小学校の頃に
商店街の父のお店にいると、
近所でしょっちゅうケンカが起きていましたね。
店の服を取って逃げるヤツがいると、
うちの販売員が追いかけていってつかまえるという。
いまの中国とかと
あまり変わらない状態だったんじゃないですか。
🔣P66より
糸井 大学では、どういうふうに過ごしていましたか。
柳井 どこの大学も、ほとんど
学園紛争というか、そういう時期でした。
だけど、ぼくはほとんど
大学に行っていないんですよ。
ぼくぐらい、大学に行かずに卒業した人も
いないんじゃないかというぐらいです。
だいたい、ぜんぶで
1年も行っていないんじゃないでしょうか。
1年半はストだったんですよ
あとの2年半は、テストを受けに行ったくらいで、
あとはほとんど行っていないですね。
糸井 その頃って、何していたんですか
柳井 マージャンとかパチンコとか、
そういうことでしょうね。ひまつぶしです
🔣P82より
柳井 食う心配はしなかったんですが、
やはり会社をやっていると、
「つぶれる」という心配があるんです。
もう、つぶしたらいけないという心配ばかりですね。
零細企業の人はほとんどそうだと思うんですけど、
「つぶれる」ということがいちばん恐ろしいんですよ。
糸井 リアリティのある発言だなあ。
20歳代前半で、すでにその恐怖を感じたんですか?
柳井 ええ。
なんでそう感じたかというと、それはやっぱり、
親父が非常に変わった人間だったからだと思います。
‥‥‥あの、ふつう、親父っていうのは
「子どもに商売をやってもらう」
といっても、口出しをするもんですよね。
でも、うちの親父はいっさい何も言わなかったんです。
「もう、お前は大丈夫だから」ということで
何もわかっちゃいないぼくに、実印とか銀行印とか
預金通帳とかをぜんぶくれるんですよ。
「あとはお前がやれ」って。
その態度はえらいなあと思うんですけど、
親父はひとことも
ぼくのやりかたに文句を言わなかったですね。
糸井 それは、すごいですね!
柳井 すごいですよ。
それは、ぼくでもできないことです。
糸井 やっぱり、ユニクロは
父親がつくったものでもあるんですね。
柳井 商売の基本というのは、いい面でも、わるい面でも、
親父に習ったんじゃないかなあと思います。