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愚見数則





夏目漱石『愚見数則』(現代語訳)

 理事がやってきて「生徒のために何か書け」と言われた。私のこの頃の頭脳は乏しすぎて君たちに語ることなんかなんも無い。しかし「ぜひ書いてくれ」と頼まれたのだから仕方ない。何か書いてやるか。私はお世辞は嫌いだ。時々は気に入らない言葉もあるだろう。また、思い出した事をそのまま書いていくので、箇条書きのような文章となり少しも面白くならない。文章は飴細工みたいなものだ。延ばせばいくらでも延びる。その代わり、中身は薄くなる物だと知れ。

 昔の学生は、故郷を離れて様々な土地を旅歩いて、これぞと思える先生に弟子入りをする。そのため、先生を尊敬する気持ちは、父兄を超える。先生もまた弟子に対して、実の子のように大事にする。こうでなければ、真の教育とは言わん。今の学生は学校を宿屋のような扱いをしている。金を出して暫くのあいだ居着いているに過ぎず、嫌になれば別の宿屋に移ってしまう。生徒の相手をする校長なんかは、宿屋の主人のようなもので、教師は世話係でしかない。主人たる校長であっても、時には客の機嫌を取らなくてはならないので、これも世話係みたいなものだ。優れた生徒を育てることより、クビにならないことが幸福だと思っている。生徒の鼻が高くなり、教員の価値が下がる一方なのは当然のことだ。
 勉強しなければ立派になれんと覚悟せよ。私は自分からは勉強しない、けれど諸君と顔を合わせるたびに「勉強せよ、勉強せよ」と言ってしまう。諸君が私のような愚か者になるのではと恐れる故である。悪い見本はこんなに近くにいる、勉旃勉旃《べんせんべんせん》。
 私は教育者に相応しくない、資格があったからたまたまなったに過ぎない。そんないい加減な男が、生計を立てるのに、手っ取り早かったのが、教師という職業であった。これ今の日本に、真の教育者がいない格好な例であると同時に、現在の学生は、エセ教育家がいい加減に授業をしても成り立ってしまうという、悲しき現実を示すものである。世の熱心な教育者の中にも、私と同意見なのは沢山いるはずだ。本物の教育者を作り出して、私のような偽物を追い出すのは、国の任務である。立派な生徒となり、ろくでなしの先生に到底教師は務められんと知らしめるのは、君たちの任務だ。私が教育場から追放された時は、日本の教育は華やかになる時だと思え。
 給料の高いか低いかで、教師の物差しを計るな。給料なんか運があるか無いかの差であり、下がることも上がる事もある。身分の低い者でも、時には貴族を超える才能を持っている。これらの事は、本を読めば分かる。ただし分かっただけで実際に応用しなければ、全ての学問は無に終わる。昼寝をしていた方がマシだ。
 教師なんて必ずしも生徒よりも偉いという訳ではなく、たまたま間違いを教える仕事に就いただけでしかない。そのため、生徒はどこまでも教師の言うことに従いなさいとは言わん。間違ったことは抗議して構わない。しかし、自分の方が間違っていると分かったなら、心を改めて謝罪をするべし。その時、言い訳はするな。自分の過ちを認める勇気はこれを果たす勇気の百倍となる。
 疑うな。ぐずぐずするな。まっしぐらに進め。一度でも卑怯や後悔の癖をつけてしまうと容易に抜け出せなくなる。墨を磨いて一方向に偏らせたならば、中々平らになってくれないものだ。物は最初が肝心であることを心得よ。
 世の中、善人ばかりだと思うな。腹の立つ事は多くある。だからといって悪人ばかりと遊ぶんじゃない。安心することはなくなる。
 人を崇めるな。人を軽蔑するな。生れなかった先を思い、死んだ後を考えてみよ。
 人を観るなら心の奥底を見よ。それができないなら手をつけるな。スイカの良し悪しは叩いて知る。人の物指しは心の鋭い刃物で切りつけて真っ二つに割って知れ。叩いたぐらいで相手を知ったと思えば、思いがけない怪我をする。
 大勢を味方に付けて一人をバカにするな。自分の愚かな姿を世間に晒すのと変わりない。そんな奴、人のカスだ。豆腐のカスは馬が食う。人間のカスはどこに行っても売れる事はない。
 自信で重くなっている時は、他人がそれを破ってしまい、自信が薄い時は自らそれを破ってしまう。むしろ、人に破られたとしても、自らが破る事はするな。嫌味を消せ。知らないことを知ったかぶりして人の悪口を言ったり、バカにしたり、冷評したりする者は嫌味が取れないからだ。人間のみならず、歌や俳句などにも嫌味が入っているものは美しさがない。
 教師に叱られても、自分の値打ちが下がったとは思うな。また、誉められたからと言って値打ちが上がったと、得意になるな。鶴は飛んでも寝ても鶴である。豚は吠えても唸っても豚である。人の批判により変化するのは相場であり、値打ちではない。相場の高いか低いかを目的にして世に身をおく、それを秀才と言う。値打ちを標準にして事を行う、これを君子という。それゆえ秀才には出世は多く、君子は落ちぶれても気にしない。
 普段は乙女のように清らかでいろ。異変が起きたら脱兎の如く敏速となれ。座る時は大磐石のようにどっしりと居ろ。ただし、乙女の時も嫌な評判は流れるし、脱兎でも稀に猟師の土産となってしまうし、大磐石も地震が起きたら転げ落ちることあると知れ。
 浅はかな知恵は使うな。成り行きの戦略を盛んにするな。二点の間の手っ取り早い近道は直線だと知れ。
 相手を騙す必要がある場合は、自分よりもバカな奴に行え。欲望に迷う奴に使え。誉め言葉や貶し言葉に動揺する奴に使え。情に弱い奴に使え。祈りだろうが呪いだろうが山が動いたためしはない。一人前の人間がキツネに騙されたことも、理学書に載っていない。
 人を見よ。金時計は見るな。洋服は見るな。詐欺師は我々よりも立派な服を着ているものだ。
 威張るな。媚びるな。腕に自信の無い者は、万が一のために凶器を身につけたがる、借金あるものは酒を勧めて貸主を誤魔化すことに懸命になる。みんな自分に弱みがあるからだ。立派な者は威張らなくても人は尊敬してくれるし、媚びなくても人から好かれている。太鼓が鳴るのは空っぽだからだ。女のお世辞の素晴らしさはそこに暴力が無いからだ。
 やたらと人を評価するな。ろくでもない奴だと心で思うだけで充分である。悪口を見てみよ、口から出た言葉が、再び口へと入ったところで、その価値はゼロだ。ましてや、聞いただけの噂でしかない、不確かな情報の上に敷かれた批評なんかは特に。学問については、むやみに議論をするものではない、反対意見の人からの攻撃を食らい、破滅するのを恐れるからである。人の身の上について、尾に尾をつけて触れ歩いていくのは、他人を雇って、間接に相手を攻撃するのと変わりなし。頼まれたことなら、仕方ない。
 頼まれもしないのに、物事を行うのは、物好きの中の物好きだ。
 バカは百人集まってもバカである。味方が大勢いるからと、自分の方が偉いと思うのは、見当違いだ。牛は牛連れ、馬は馬連れと言う。味方の多さは、そのバカを証明している。片腹痛し。
 何かをするならば、時と場合と相手、この三つを遠ざけてはならない。その一つを消すのは言うまでもなく、その百分の一すら欠けたとしたら、成功は程遠い。しかし、物事というのは、必ずしも成功を目的として、進むものではない。成功を目的にして、物事を行うのは、給料を貰うために、仕事するのと同じだ。
 騙そうとする人がやってきたなら、差し支えなければ、カモの振りをするのも良し。イザという時になれば、相手を投げてしまえ。別に復讐というわけではない、世のため人のためである。愚か者は利益で動いている、自分に損となる事を知ったならば、少しは悪事を減らすだろう。
 口にする者は何も知ってはいない、知っている者は何も言わない。余計でしかないあやふやなことを喋るなんて、見苦しいだけだ。ましては毒舌なんかは特に。何事も控えめでいろ。奥ゆかしくせよ。別にむやみに遠慮するなというわけでもない、一言いうのも場合によっては千金の価値がある。膨大な本だろうと下らないことしか書いてなかったなら便所の紙と変わりはない。
 損得と善悪を混ぜたりするな。軽薄と淡白を混ぜたりするな。真率《しんそつ》と浮跳《ふちょう》を混ぜたりするな。温厚と怯懦《きょうだ》を混ぜたりするな。磊落《らいらく》と粗暴を混ぜたりするな。おりを見て変化に応じて、その数々の性質を見ていけ。一があっても二がないものは上達しない。
 この世に悪人がいる以上、喧嘩は免れない。社会が完全にならない限り、不変な騒動は収まる事はない。学校も生徒が騒動を起すからこそ、少しずつ改良されていく。平和なのはおめでたい事であるが、時としては、悲しい現象である。とは言うものの、決して君たちに反乱しろと勧めている訳ではない。むやみに乱暴されたら非常に困る。
 命に気遣う者は君子である。命を打ち倒す者は豪傑である。命を怨む者は婦女である。命から逃げる者は小人である。
 理想を高めよ。だからと言って無理に野心は大きくせよとは言わん。理想の無い者の言葉や動作を見てみよ。醜さが極まっている。理想の低い者の振る舞いや礼儀を見てみよ、美しい所はない。理想は見識から出てきて、見識は学問から生まれる。学問をしても人間として質が上がらないのだとしたら、最初から無学でいる方がマシである。
 騙されて悪事を働くな。それは愚でしかない。食わされて悪さをするな。卑しさを証する。
 口数が少ないからと、口下手だと思うな。ぼーっとしてるからと、怠け者と思うな。良く笑うからと、怒らない奴だと思うな。名声に関心がないからと、風評を耳にしたがらないと思うな。いつも同じ飯を食ってるからと、グルメじゃないと思うな。怒っているから、忍耐がないと思うな。
 人を屈せんと欲すなら、先ずは自ら屈せよ。人を殺そうするのなら、先ずは自らを殺せ。人をバカにするは、自分をバカにするのと同じ。人を負かそうとするのは、自らに敗けていると同じく。攻める時は韋駄天のごとく素早く、守る時は不動のごとくせよ。

 右の条々、ただ思いつくままに書いてみた。長く書けば限がないので省略。必ずしも諸君に一読せよとは言わない。ましてや、心に刻んで忘れんようせよとも言わない。諸君は若い、人生の中で尤も愉快な時期にいる。私のような者の説に、耳を傾ける暇なんて無い。しかし、数年経って、校舎での生活をやめて、突然社会に出たとき、首を回らして考一考したら、あるいは尤もだと頷くこともあるだろう。ただし、保障はしない。

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