腹のうちを覗くとき
生まれて初めて胃カメラを飲んだ。
鼻から差し込まれたのだから、厳密には飲んだわけではないけど、喉を通っていくこの感覚は飲むという表現がふさわしい。
食事制限による低血糖と軽い麻酔で、看護師や主治医の声はずいぶんと遠いものに感じられた。世界が遠のいていくようなディジーな感覚って日本語ではどんなふうに言うんだっけと考えていた。
胃カメラはおもむろに差し込まれ、医者はするすると釣り糸でも垂らすようにすべらせていく。夢うつつの意識のなかで、喉やお腹にカメラがぶつかるのを感じる。それが無機質なカメラだと分かっていても、胃壁をノックされるたびに、どうしてか気分は満ち足りていった。人間の体にとって空腹の胃に何かが入ることは、ただそれだけで幸せなのだ。
医者が動かす胃カメラの映像を、病院が用意してくれたモニターで見る。未知の世界を進んでいく映像は、小学生のときに乗ったディズニーランドのスター・ツアーズを思わせた。胃のなかの世界は宇宙で、主治医は僕らのパイロットだった。麻酔であがった心拍数が、冒険をよりスリリングなものにしていた。
「腹のうちを探る」なんて言葉があるくらい、腹は自分の内面であるはずなのに、観察しているとそれは自分の外側のように感じられた。たしかに客体視するということは、自分をそれと切り離して、非なるものとして扱うということだ。体の内側が外側になるこの奇妙な体験に、僕はおどろき、感動していた。
母親が自分と別の存在だと気づいたときの赤ん坊も、きっとこんな興奮と不安を感じるのだろう。自分と世界の境界がゆらぐ、立ちくらみのような感覚だった。あるいは少年が初めて恋人と一夜をともにした朝のような、自他の境界が更新され、世界の見え方が変わる瞬間。
モニターに写った僕の「腹のうち」は、きれいなピンクと白のまだら模様で、怪しいたくらみも、卑しい裏切りもない、清らかな宇宙だった。自分の内面がとても綺麗だと分かるのは、たとえ色彩の話だったとしても、ずいぶんと喜ばしいことだ。僕はこんなに美しいものを、自分の「腹のうち」に抱えて生きているのだ。
検査が終わった後、点滴をうけながらしばらくソファーで横になっていた。麻酔が抜けて動悸がおさまるのにあわせて、興奮は引き潮のように去っていった。良質な映画を見たときのような静かな感動を覚えながら、僕はソファーにぐったりと身を沈めて、ポタポタと落ちる点滴を数えていた。
(後日談。きれいなピンクと白のまだら模様は、ピロリ菌保有者に特有の萎縮性胃炎でした。なんと医学・生理学的には、僕の「腹のうち」は綺麗ではなかったのだ。胃がんを未然に防ぐためにも、皆さんピロリ菌の検査を受けましょう。)