ドメスティック冷戦
家族の繋がりを死守することで誰かが苦しむくらいなら、いっそのこと家族崩壊という選択もアリなんじゃないか、とさえ思う。
私は以前、こんな記事を書いた。↓
この記事では、一緒に住んでいる両親に対して、私が密かに抱いている思いを綴った。
何も、単なる感謝や尊敬に留まった温かい話じゃない。
記事の核は、一緒に暮らしていく中で気づいてしまった、人生の価値観の相違。
だから今後は、進学や結婚などといった大きなライフイベントだろうと、日常の小さな出来事から生まれた心の傷や悩みだろうと、人生相談の類は相手に両親を選ばないと決めた。
経験上、両親を相手に相談すると私は必ず余計に傷つくことになる。
という、そんな話を書いた。
そして今回は、最悪の場合を想定したとき、私はいよいよ家族との縁を切ってしまうことも厭わないつもりでいる、という話を文章にしたい。
※ここから先、「親に育ててもらって何を言っているんだ」と言いたくなるような身勝手な発言もあると思います。気分を害してしまうかもしれないことを先にお詫びします。
特有の地雷を抱えていることは、たぶん人として自然なこと
私は今も実家暮らしで、家族と同じ屋根の下で生活している。
たぶん、それなりには"幸せな家庭"なんだと思う。
裕福な生活とは程遠い。
けれど、両親の夫婦仲は長年安定して良好で、夕飯の時間には、団欒がある。
テーブルを囲めば、それなりに会話は弾むし、笑いが起きることもある。
ただ、家族そろって、笑える。
それ以外に一体何が必要だというのだろう。
しかし、我が家のこの良好な家庭環境はあくまで表面的なものに過ぎない。
私と母の間に、地雷が発見されてしまったから。
昔は、私が幼かった頃は、純に温かい家庭だと思っていた。
しかし、私は成長していき、思春期を経験し、自分なりの考えや価値観を形作っていった。
それと同時に、両親が"自分とは異なる背景と経験をもつ単なる人"として見えてしまうことも増えた。
そうして、私の親が一体どんなものを好み、そして嫌うのか。いち人間としての人物像を、ある程度知っていった。
私と父と母が、"違う人間"であることを、まざまざと実感させられた。
特に、母と私の間の価値観の溝は、測ってみると異様に深く大きいことがわかってしまった。
いろいろあった今、幸せな食卓は表面上のもののようにも思えてしまう。
たぶん、やってること自体は私が幼かった頃と大して変わらない。
話して笑う、至極シンプルな幸せの形。
だけどその話題は、家族それぞれがもつ地雷を避けて選ばれているように見えてしまう。
"笑えない話題"を避けて、誰の地雷も踏まない話題を慎重に選ぶことで、幸せな家庭の表面上の形を維持しているのかな。
「うちは幸せな家庭だ」そう信じるための営みなのかもしれない。
本当の自分ではいられない食卓で、本音を押し殺して私は今日も笑う。
ただし、家族とは言ったって、結局は別人格の人間。
人生の価値観が合わないことは何ら不思議じゃない。
ただただ、仕方のないこと。
誰が悪いとか、そんな話じゃない。
だから、私は親を憎んじゃいないし、嫌いでもない。
育ててもらったことに感謝している。
因みに、先程から述べている、母と私に関する地雷とは具体的にどういったものなのか。申し訳ないけれど、それについて今は詳細を控えたい。
まだ、インターネット上に書いてしまうことへの抵抗が拭えない。
noteという場でありながら、その具体的な内容を打ち明ける勇気を未だに出せない自分が情けない限り。
「分かり合えないなら、別々に幸せになろうよ」
互いの地雷を踏まないように談笑する。
それ自体は家族の中でもさほど珍しいことじゃないような気もする。
だけど、今後私が自立して、私という人間として幸せな人生を送ることを考えたとき、選択的な家族崩壊が必要になるのかもしれない、って思うようになった。
それは、私の望む道の入り口に、母の大きな地雷が敷き詰められているから。
私が自分の価値観に合わせた生き方を貫くことは、それを踏み抜く行為にほかならない。
それぐらい、私たち親子は相容れぬ価値観を持ってしまった。
さらに、母だけではない。
父の地雷は、母の地雷を踏むこと。
どんな理由があろうとも、母を悲しませた瞬間父は私に牙を剥くことを知っている。
父は常に、妻である母の味方。
私は別に、両親を敵に回すつもりなんてないのだけれど、両親がそう受け取ってくれるとは限らない。
地雷を踏もうものなら、そこに冷静さなどないと思う。
だから、私にとっての自立は危険を伴う、ように思えてしまう。
勇気が必要になるのは、私が実家を出る時。
実家にいる限りはその障壁から目を背けていられるけれど、実家を出る時にはどうにもならない。
自らの意思を、本音を、伝えるしかない。
だって、私を幸せにするためには、私が自ら向かっていかなきゃいけないんだもの。
今はもう、いずれやってくるその時が怖くて仕方がない。
そう遠い未来ではない。
大好きな家族との日々が、場合によってはあと数百日しか続かないのかもしれない。
具体的にあと何日なんて、数えたくもないよ。
本当は、家族と仲良くしていたい。
一緒に、幸せに暮らしたい。
あくまでもそれが私の本音。
だからこそ、悩んでしまうのだろう。
最初から「絶縁してやる」って思っていたら、それはもう思い切った行動ができるでしょうに。
一度、母と真面目な話をしたとき、勇気を出して訊いてみたことがある。
要約すると「私は何があっても、貴方の子どもか」という具合の質問。
「当たり前」って言われた。
どうやら母は、この先何があっても、私を愛してくれるらしい。
正直、その腹の底がわからない。
勝手に想像して、勝手に慄いてしまっている。
なんと親不孝な子どもだこと。
私が母の"愛する我が子"であることに、何らかの前提条件が含まれてはいないか?
あの日の「当たり前」は、その条件をクリアしている前提での話ではないのか?
そんなことを考えては、自分は何を疑って怖がっているのか、何様だ、とも思う。
私とて、親への愛が完全に無条件かと詰められたら、その自信はきっと保てなくなるのに。
「その時」は来ないと願う。
だけどもしも、本当に家族とお別れすることになったときの心配事は、「両親は私を手放してくれるのだろうか?」という事。
私が「理想の我が子」であることを諦め、選択的な家庭崩壊を認めてくれるのだろうかということ。
何度考えても、怖いな。
向かうべき最終点は、家族みんながそれぞれのやり方で幸せに暮らすこと。
その意思はきっと、私も父も母も同じだと思う。
私はそれをできることなら、家族みんなで繋がったまま、達成したい。
いろいろ、親孝行もしたいんだから。
だけど、今はどうやら家庭内冷戦に等しい状況らしい。
本音を伝えるときは、しっかりと準備してこの上なく丁寧に伝えなくては。
両親と、講和条約を結ぶために。
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