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『ターナー日記』の邦訳①序文~第一章

米国の白人至上主義者の聖典だといわれている『ターナー日記』の邦訳をはじめました。今回は序文と第一章を公開してみます。進度に応じてすこしずつ公開していって、今年中の完成を目指していきます。ご意見ご感想がございましたら、聞かせてもらえればたぶん励みになります。


序文

「偉大な革命」については豊富な文献が存在する。「新世紀」まで生き延びた、革命の指導的な人々のほぼ全員の回顧録もある。劇的な大変革と再生を経験した、あの時代の出来事と状況をつぶさに語る文献などは読み切れないといわれるかもしれない。しかしながら、『ターナー氏の日記(The Turner Diaries)』は「偉大な革命」の背景について、以下の二つの理由によって、ほかでは得られない知見をもたらしてくれる。

1)『ターナー氏の日記』は、「革命」が完了する直前の数年間の苦闘について、あるがままに、一日ごとに、公平にかつ一貫して詳述した記録の一つである。しかも、後世に誤解をあたえるおそれがある歪曲と無縁である。史上に例をみない闘争に参加したほかの人々の手記も現存してはいるが、完璧に詳しく記述してあるものはまだ出版されていない。

2)"組織"の一般のメンバーの視点で執筆されており、近視眼的な個所も見受けられるが、すべて正直に書かれた記録である。「革命」の一部の指導者たちが書き残した記録とちがって、著者は自分が歴史上でなにを成し遂げようとしているのかを自覚して書いてはいなかった。このあとのページを読み進めるにつけ、最大級の危険のなかで奮闘と犠牲によってわれわれの種族を救い、「新世紀」をもたらした男女の、真実の思考と感情をほかのいかなるソースに依るよりもよく理解することができる。

この手記を書いたアール・ターナー氏(Earl Turner)は、BNE43年(Before New Era 43. 「革命」が完了する43年前)にロサンゼルスで生まれた。旧世紀のロサンゼルスは、北米大陸の西海岸に広がる広大な一つの大都会の名前だった。現在では、広大な田園に囲まれたエカートヴィル(Eckartsville)とウェッセルトン(Wesselton)という町がある。ターナー氏はロサンゼルスで育ち、電気技師の教育を受けた。
学業を終えてから、当時は合衆国の首都だったワシントン市の近くに居を構えて、電子技術の研究所で職を得た。
彼が"組織"で活動をはじめたのはBNE12年のことである。この手記の執筆が始まったのはBNE8年(古い年代記では1991年にあたる)であり、ターナー氏は35才で、組織のなかに友人はいなかった。
手記に記述されているのはアール・ターナー氏の人生のたった二年間のことである。だが、「殉教者の記録」に名前が刻まれた一人の人間をとおして、秘められた知識をわれわれにもたらしてくれる。ゆえに、父祖から引き継いだその聖なる「記録」にあるすべての殉教者の名を暗記する課題が学生時代に課せられたことのある我々にとって、彼の言葉にはそれだけで特別な意味がある。
『ターナー氏の日記』は、びっしりと文字で埋まった五冊の大きなノートと、最初の数ページだけ書き込まれた六冊目のノートで構成されており、布で装丁されている。布地の隙間にもノートと紙片がたくさん挿入されていて、ターナー氏が基地から逃走したあとに書き込んで挿入したようである。
すべての手記は、ほかの歴史的に重要な遺物とともに、歴史研究所のチャールズ・アンダーソン博士が率いるチームによって昨年に発見された。博士のチームは先だって、ワシントンの廃墟の近くのほら穴で革命東部指令所を発見していた。「偉大な革命」から百周年を記念する今は、この手記が一般の人々に公開されるのにふさわしい年である。

A.M.
ニュー・バルチモア
新暦100年4月

一章

1991年9月16日。本日ついにはじまった! 話し合いばかりで何年も過ごしたあとに――そう、話し合うだけだ。何もできなかった……――俺たちはやっと最初の行動をおこした。俺たちは「システム(the System)」と戦争をしている。もう、言葉だけの戦争じゃない。
眠れないので、頭のなかに浮かんでいることをいくつか書いてみることにする。
ここで会話をするのは安全じゃない。壁がとても薄いし、隣人が深夜の会議におどろくかもしれない。そのうえ、ジョージとキャサリンはすでに寝ている。ヘンリーと俺だけが起きているが、ヘンリーはずっと天井をみつめているだけだ。
俺はひどく緊張している。神経が過敏になっていて、ただ座っているのがやっとだ。おまけに疲れ切ってクタクタだときている。俺たちの拘束が始まったことを警告するジョージからの電話が今朝の5時30分にかかってきてから、真夜中の今までずっと起きている。一日中、気が休まるときもなく動いていた。
だが、俺は同時にワクワクしていた。俺たちはついに行動した! "システム"にどれだけ長く逆らってみせられるかは誰も知らない。もしかしたら、明日にはすべてが終っちまうかもしれない。だが、そんなことを考えてはいけない。今や俺たちは始めてしまったんだ。二年前の「銃の没収事件(the Gun Raid)」以来ずっと細心の注意を払って温めてきた計画を遂行しなければならない。
俺たちにとってなんたる痛手だ! 俺たちの恥辱だ! "政府が俺の銃を取り上げることはぜったいにない"というのは愛国者たちの勇ましい空言にすぎなかった。それが起こったときには、泣き寝入りをするしかないのだ。
だが一方で、Cohen法がアメリカのすべての個人の火器所有権を侵害してからほぼ十八か月が過ぎても、まだこんなにたくさんの人々が銃を持っている事実に励まされていいかもしれない。多くの人々が法律に抵抗して、武器を返納する代わりに隠匿したので、政府は「銃の強奪事件」後にそれ以上は手荒なことができなかった。
1989年11月9日という、忌まわしい日をけっして忘れることはないだろう。やつらは朝の五時にうちのドアをノックしてきた。飛び起きてだれが来たのかを確かめるまで、なんの警戒もしていなかった。
ドアを開けたら、四人の黒んぼが制止する暇もなくアパートに押し入ってきた。一人は野球のバットを持っていて、長い包丁を腰のベルトに差しているやつも二人いた。バットを持っているやつが俺を部屋の隅へ押しのけて、ほかの三人が部屋を物色しているあいだ、バットを構えて脅しながら俺を見張っていた。

やつらは強盗だと最初に思った。こういう強盗はCohen法の施行以来、あまりにも普通のことになっちまった。黒人の集団が白人の家に押し入って、強盗と強姦をはたらいている。やつらの犠牲者が銃を持ってさえいれば、そんな大胆不敵なことはできないとわかりきっている。
それから、俺を見張っていたやつがなにかのカードをちらりと見せて、やつらは北バージニア・ヒューマン・リレーションズ評議会の"特別代理人"だと告げた。銃器を探していると言った。
信じられなかった。ありえないと思った。そのとき、やつらが左腕に細長い緑色の布を結んでいるのに気付いた。やつらはタンスの中身を床に放り投げて、クローゼットから旅行カバンを引っ張りだしながら、強盗ならばけっして見逃さないものを無視していた。俺のあたらしい電気カミソリ、値打ち物の金の懐中時計、10セント硬貨がぎっしりと詰まった牛乳瓶。やつらは銃を探していたんだ!
Cohen法が成立してすぐに、"組織"のメンバー全員が、銃と弾薬をみつからなさそうなところに隠した。俺の部隊では、銃に油を丹念に塗ってから、それをドラム缶に封入し、退屈な週末をまるごと費やして、ペンシルバニア州西部の200マイル先にある林のなかの、8フィートの深さの穴にドラム缶を埋めた。
だが、俺は一丁だけ隠さないでおいた。.357マグナムリボルバーと50発の弾を、台所とリビングのあいだの扉の部材のなかに隠した。緩めておいた二本の釘を引き抜いて扉の板を外せば、必要な時はいつでも二分きっかりでリボルバーが取り出せる。自分で時間を計測した。
警察が探しても絶対にリボルバーは発見できないだろう。まして、この素人の黒人たちには百万年かかってもみつけだせない。銃の捜索を担当していた三人は、わかりやすい場所を探しおえると、絨毯とソファのクッションを切り裂きはじめた。これには精一杯の抗議をして、実力行使をしようかと一瞬考えた。
そのあいだに、アパートの廊下でも騒ぎがあった。べつの捜索グループが、廊下のむこうの若いカップルの部屋でベッドの下に隠されていたライフル銃をみつけたのだ。カップルは手錠がかけられて、階段に無理やり連行されていた。着用しているのは下着だけで、若い女のほうは自分の赤ん坊が部屋に一人で残されていることを大声で訴えていた。
男がもう一人、俺の部屋に入ってきた。肌が妙に暗い色だが、白人だった。やはり緑の腕章を着けていて、アタッシェケースとクリップボードを一つずつ持っていた。

黒人たちはその白人に恭しく挨拶をしてから、残念な結果を報告した。

「銃はありません、Mr.テッパー」

テッパーという男はクリップボード上のアパートの部屋番号と十人の名前のリストに指を走らせながら、俺のところにきて、眉をひそめながら言った。

「それはまずい。こいつはレイシストだと記録されていて、二度も評議会で名前が挙がっている。そして、一丁も返却されていない八丁の火器を所持している」

アタッシェケースを開けて、ケース内の電子機器とコードでつながった、煙草の箱のサイズの小さくて黒い物体をとりだした。壁をなぞるように黒い物体を動かしはじめると、ケースのなかから鈍くうなる音がした。照明のスイッチに近づけるとうなる音の音程が上がったが、金属製の接続器と電線が壁に埋まっているからだとテッパーは納得して、規則的に壁をなぞる動作をつづけた。

台所につづくドアのフレームの左側をなぞると、うなる音が耳に刺さるような金切り声にかわった。テッパーは興奮して声を漏らし、黒んぼの一人が外に出て、数秒後には両手用のハンマーとてこを持って戻ってきた。それで黒んぼが俺のリボルバーをみつけるまで、二分もかからなかった。
俺はそれ以上の抵抗をせず、手錠がかけられて屋外に連れ出された。俺のアパートでは結局、四人が逮捕された。廊下のむこうのカップルに加えて、四階で一人の年配の男も捕まった。年配の男の部屋に火器はなかったが、ショットガンのシェルがクローゼットの棚でみつかった。弾薬も違法である。
Mr.テッパーと彼の"副官"が何名か、押収物の搬出のために屋内にもどり、バットとナイフを持った三人の大柄な黒人たちが俺たちを見張るためにアパートの前に残った。俺たち四人は、適当に服が脱がされた状態で、寒い歩道の上に座っているように強いられた。警察のバンがやっと俺たちを迎えにくるまで、一時間以上もかかった。
アパートのほかの住人は俺たちをじろじろと見ながら、仕事に行った。俺たちはみんな寒さで震えていて、廊下のむこうの若い女は止めどないすすり泣きをつづけていた。
一人の男が立ち止まって、これは何事なのかと質問をした。こいつらは全員が違法な武器を所持していたと、見張りの一人がぶっきらぼうに説明した。男は俺たちを凝視して、失望したように首を振った。
そのとき、黒人が俺を指さして言った。

「それから、そいつは人種差別主義者だ」

ふたたび首を振りながら、男は去っていった。
ハーブ・ジョーンズ(Herb Jones)が目をそらしながらすばやく脇を歩み去っていった。彼はかつて"組織"に所属していた人物であり、Cohen法ができる前に「ぜったいに俺の銃は渡さない!」と一番やかましく主張していた。彼のアパートも調べられたが、シロだった。Cohen法によって銃を持っていたら連邦刑務所に十年ぶちこまれるようになって以来、銃を警察に提出することについては町内でいちばんそつのない男になっていた。
これは路上で俺たち四人に課せられた刑罰だった。それほど効果的な刑罰になってはいなかったが。というのも、その日に国中で展開されたこの強制没収は"システム"が見積もっていたよりもはるかに多くの獲物を水揚げしていたからだ。80万人以上が逮捕された。
ニュースメディアははじめ、検挙がはかどるように、俺たちへの厳しい国民感情を十分に惹起しようと努めていた。俺たちを収監する監房が足りないので、あたらしい監獄施設が用意できるまで、野外に有刺鉄線でつくられた囲いのなかに俺たちを集めて解決しようと新聞がこぞって提案していた。凍える天気のなかで!
ワシントンポストの翌日の記事の予告をまだおぼえている。

「違法な武器を掌握していたファシストとレイシストの陰謀が打ち砕かれた」

だが、洗脳されたアメリカの大衆ですら、百万人近くの同胞がひそかに武装する陰謀に加担していたという話を完全に信じることは出来なかった。
強制没収の詳細が知れわたるにつれて、大衆の不安がふくらんだ。強制没収を実施したのが自分は捜査されない特権を持った近所の黒人ばかりだったことが人々をざわつかせた。このことについて最初になされた説明は、火器を隠匿している主な容疑者は"人種差別主義者"なので黒人の家をしらべる必要は比較的に乏しいという話だった。
この説明の奇妙なロジックは、無数の人々に"レイシスト"か"ファシスト"の容疑がかけられて強制捜査で捕まることになったときに破綻した。それらの人々のなかには、銃の撲滅の最前線で論陣を張っていたリベラルな新聞の有名なコラムニストや、四人の"肌が黒い"下院議員(彼らは白人の隣人といっしょに住んでいた)、多すぎて驚くほどの数の政府職員が含まれていた。

没収の対象になった人々のリストは、もっぱら、銃の販売業者が義務付けられている売買記録からつくられたことが判明した。Cohen法の通過後に警察に銃を引きわたした人間の名前はリストから消される。銃を渡さないままでいれば、11月9日に踏み込まれる――黒人の居住地域に住んでいなければ。
おまけに、特定の属性を持つ人間は、業者から銃を購入したことがあるかないかにかかわらず、捜査を受けた。"組織"のメンバーは全員が捜査を受けた。
政府がつくった容疑者のリストは広範であり、強制没収に協力する代理人になった"信頼できる"市民のグループもたくさんあった。リストにある人間の大半がCohen法の施行前に自主的に銃を売っぱらってしまうか、ほかの何らかの方法で処理をすると"システム"の計画者は予想していたのだろう。実際に逮捕者が多く出るのはせいぜい三か月くらいだと見積もっていたのだろう。
ともあれ、計画者の予想を超える手に負えない状況になってきたので、逮捕された人間のほとんどが一週間で釈放された。俺が入っていた約600人のグループは、アレクサンドリアの高校の体育館へと三日間収容されてから、釈放された。その三日間に四回しか食事がもらえなかったし、眠ることすらろくにできなかった。
しかし、全員の顔写真と指紋、個人データが警察に送られた。釈放されたときに、俺たちはまだ厳密にいうと逮捕されたままであり、いつまた摘発されて起訴されるかがわからないと告げられた。
メディアは起訴を実行すべきだとがなり立てていたが、やがて尻すぼみになった。実のところ、"システム"はしくじって、やりそこなったのだ。
数日のあいだ、俺たちはみんなまだおびえていたが、なにはともあれ自由になれたことを喜んだ。"組織"からそこで脱落する人間がたくさん出た。彼らはこれ以上の危険をもとめていなかったのだ。
残った人間も強制捜査を口実にして活動からとおざかった。国民を代表する愛国者たちが骨抜きになって、自分たちは"システム"の掌の上にいるからこれまで以上にずっと用心深くならなければならないと語り合った。表立った勧誘活動を一切自重して"地下に潜る"ことを望んでいた。
こうなった以上、彼らの頭のなかにあるのは"組織"のこれからの活動を"安全"なものに限ることだ。状況がおもにひどいかをひそひそと語り合っては、文句を言うだけでおわる活動だ。
いっぽうで、もっと闘争的なメンバーは武器を掘り出して"システム"にたいするテロ計画をすみやかに始動させることを提唱していた。裁判官、新聞の編集者、立法府の議員、そのほかの"システム"の構成員の処刑を実行する。時が熟したと彼らは感じていた。なぜならば、銃の強制没収のおかげで、圧政にたいする蜂起についての大衆の共感を勝ち得ることができるから。
彼らが正しかったのかは、今もまだわからない。個人的には、彼らは間違っていたと思う――俺も間違っていた一人なのだが。アメリカに災いをもたらす豚どもをほんとうに殺しまくることができたしても、長期的にみて俺たちは負けたと確信している。
第一に、"組織"は"システム"にたいするテロを実行するために十分に訓練されていなかった。腰抜けと口だけのやつが多すぎた。密告屋、能なし、優柔不断、無責任な阿呆どもが俺たちの命取りになった。
第二に、大衆の気分について俺たちは楽観的すぎる見通しをもっていたと今は気付いている。銃の没収事件によって市民の権利がないがしろにされた件についての一般人の恨みについて俺たちが誤解していたことは、大量逮捕の混乱によって巻き起こった不安が予想より早くおさまったことだ。
危険はない、違法な武器を保持している"レイシスト、ファシスト、そのほかの反社会分子"を摘発するだけだと報じたメディアによって、大衆はあっというまに安心を得て、弛緩しきったままでばかばかしいテレビ番組と三面記事にもどったのだ。
こういう事実を理解し始めたときに、俺たちはそれまでにもまして士気を阻喪した。俺たちは、元来のアメリカ人が圧政に反対する人々だという前提に立った見通しを持っていた――"組織"の理論的根拠がじつのところそういう前提だった。"システム"が限度をこえて横暴になれば、アメリカ人はそれを転覆しようと考えるはずだった。実利主義による同胞の堕落についてとんでもなく楽観視していたらしい。マスメディアによる心理操作の浸透についてもだ。
政府が国の経済を、息も絶え絶えであってもどうにか生きながらえさせている間は、どんな逸脱も受容れるように調整されている。インフレが続き、生活の水準がゆるやかに目減りしているにもかかわらず、大半のアメリカ人は今日でもまだ満腹を維持している。大抵のやつらにとって大切なのはそれだけだという事実にたいして俺たちは向き合うことが強いられていた。
士気阻喪と混乱に見舞われながらも、未来のためにあたらしい計画を立案した。はじめに、勧誘活動は継続すると決めた。それも、プロパガンダをわざとありったけ過激にして、勧誘を強化した。戦闘的な新メンバーをあつめることだけが目的じゃなく、"組織"から小心者と趣味で参加している人間とを弾くためでもあった――"口先だけ"の人間はいらない。
規律も引締めを図った。定刻の会合に二度つづけて来なかったら誰であれ除名した。割り当てられた仕事がやり遂げられなかったやつは誰であれ除名した。"組織"の問題についてくだらないことを言うなというルールを破ったやつは誰であれ除名した。
"システム"が隙をみせる次の好機に備えて、"組織"の精神を醸成した。俺たちの行動における失敗の反省点は、行動する能力がなかったことだったのだ。1989年に俺たちは苦悩し、容赦なく自分たちを追いこんだ。あらゆる障害物を乗り越えて、"組織"を戦闘状態にするように鞭打つ鋼の意志こそが、おそらくもっとも大切でただ一つの重要なことだった。
助けになったのは――すくなくとも、俺にとっては――再逮捕と起訴のたえまない恐怖だった。すべてを投げ出してテレビと愉快な楽しみに混ざりたくても、できない相談だった。Cohen法によっていつ起訴されるのかわかったものでないのに、"ふつうの" 市民としての将来を思い描くことはできなかった(憲法上の迅速な刑事裁判の保証は、武器の所持と携帯の権利の憲法上の保証よりも意味を持たなくなるまで、とっくに法廷で"再解釈"されている)
だから俺は、いやジョージとキャサリンとヘンリーにも当てはまることなのだが、『組織』のための仕事に全身全霊で身を投じて、『組織』の未来のための計画だけを練った。私生活は意識の外に飛んでいった。
『組織』が実際には万全でなくても、俺たちはすぐにでも十分な回答が出せるとおもう。1989年のような次の大量検挙を回避するための計画は機能しているようにみえた。
去年のはじめに、秘密警察にまだ割れていない新メンバーを、ヒューマン・リレーションズ評議会のような色々な半公共組織と警察関連の役所に送りこんだ。彼らは早期警戒網の役割を果たし、また"システム"の俺たちにたいする計画の概要を知らせてくれた。
このネットワークを仕込んで機能させるのが容易いことにおどろいた。J. Edgar Hoover(FBIの初代長官)の時代ならばこんなことはできっこなかっただろう。
警察の人種比率の是正は危険だと"組織"がずっと警告していたのに、いまやそれが我々にとってのおもいがけない隠れ蓑になっているのは皮肉なものである。"機会の平等"マンが、FBIなどの捜査機関をじつにみごとにぶっ壊してくれた。おかげで、やつらの効率は結果的にだだ下がりになった。だが、俺たちは自信過剰になったり油断したりしないほうがよさそうだ。
なんてこった! 午前四時だぜ。すこしは寝ておくべきだった!

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