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手織り真田紐のこと(三)西村幸さん


修司さんの時代には、上皇陛下の立太子の礼のとき
初代滋賀県知事 服部氏より滋賀県から西村家の手織り真田紐が献上されました。知事はじめ町長などが揃ってかがり火を焚いて送り出したそうです。

また、終戦後にマッカーサー氏がアメリカ空軍を退官し帰国される際に
手土産に持ち帰った藤娘人形のガラスケースに西村家の草色の手織り真田紐が掛けられました。

終戦直後は糸がとても貴重でした。
手織り真田紐を生業としていた西村家には特別多く糸の配給があり、
八日市の西陣織の職人さんに分けるなど、職人同士で助け合ってきました。

美智子様(上皇后様)お輿入れ準備の時や、常陸宮妃殿下がいらした際には
幸さんの織られた紐が献上されました。

手織り真田紐職人 西村幸さん

富弥さんが亡くなられてからもその手を止めることをされなかった幸さんです。代々引き継がれてきた家業。
使命感以上に『 感謝 』の思いで織機に向かわれていたことに、お人柄を感じます。気付けば日本でたった一人の手織り真田紐職人になっていました。

真田紐は箱紐だけでなく、用途は様々です。
それぞれのニーズに応えて淡々と織り続けて来られました。
糸の選別から染色、整経、糸繰り、織りつけ、かざり、筬(おさ)など、織り始める準備工程が重要です。ひとつひとつの初動を丁寧にしないと後が大変になりますので織り始める前がとても大切なのです。
 10日ほど準備に費やしたあと、半丸(約35m)を織るのに、通常は単(ひとえ)1カ月・袋で1カ月半ほど要します。
複雑な模様や幅、材料によっては更に時間がかかります。

過去見本帳(一部)より。箱紐は勿論、京都葵祭の紐やメダルの紐など多岐にわたる

富弥さんがご活躍されているときは、ただ職人として働いてきた幸さんです。
ご商売においては、納期管理や金銭の受授については疎い部分もあり
ほぼ口約束やメモ書きで受注のやり取りをされていた中で、
辛い思いをされることも多々あった様です。
" 野辺の雑草 "と表現されていらっしゃいますが、西村家は名もなき職人として特別にご主張されずただただ紐を織ってこられました。
 納期に追われて、早朝から深夜まで織機に座り約70mを1ヵ月で織り上げる幸さんでした。

    メモ書きの発注書 / 織り上げた文化財緞帳の紐(糸は持ち込み)
先方指定の糸で織るものの、色味が違ったとの理由で3度の織り直し。
糸繰から4ヵ月かけて納品するも1丸分の支払いのみだったことも。

デパート等の実演や、映画真田幸村の妻が真田紐を織る手元で幸さんが出演されたこともありました。

太秦にて 真田幸村役松方弘樹氏と現職人の千鶴さん


時折メディアなどの目に留まり、幸さんは都度織機の手を止めて対応されて来られました。
取材に当たっては、前日から準備をしたり時に数日撮影が入るとその分納期が迫り大変だったようです。
幸さんは全て無償で喜んで受けてこられました。

上記他、様々なメディアに取り上げられる
織機に向かう幸さん


幸さんの織られた紐たち。
繊細且つ難易度の高い金糸・銀糸の市松は、操さんに技術が引き継がれています。



蛇足
*操さんにお話をお伺いしていた時に私個人が感じたことになりますが、 メディアの方々は宣伝広告効果を鑑みて無償取材とされてこられたと存じます。ですが、実情はそれと相殺されているように思えませんでした。その効果があれば手織り真田紐職人が幸さん唯一人とはなっていなかったと思います。
取材スタッフの方々との出逢いを楽しまれていた幸さんです。あるメディアに記念に撮影された写真の掲載許諾を問い合わせたところ、掲載や取材映像の貸し出しは有償とのことでした。無償で幸さんの貴重な時間・技術の開示を頂きながらのその回答に少し残念に思いました。
株式会社米朝事務所様はじめ、快く許諾に応じてくださった各位には感謝申し上げます。


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