ディストピア的な「ジェンダーレス」
昨今「ジェンダーレス」(英語だとジェンダーニュートラル【ジェンダーに中立】)という造語が使われています。この概念を広めようとしている側は、「男女(枠)・男女の概念に囚われない」「LGBTへの配慮」「性別に悩んでいる人への配慮」を理由として挙げる事が多いですね。
いわゆる「左翼」ではない人たちも、「人権」「平等」の一貫として推されているこの概念を深く考えずに受け入れてしまっていますが、一石を投じたいと思います。
現代では「差がある事」「格差」が全て忌み嫌われてしまっています。
しかしこれは果たしていい事でしょうか?
機会に差があり、特定の個人や集団に機会が与えられていない格差は是正すべきですね。
資本主義社会においては経済活動におけるルールがない場合や不当なルールがある場合、公平な競争が出来ない状態によって生じる格差も是正すべきですね。
しかし男女差はどうでしょう?
性別によって正当な理由なく機会が奪われている場合の格差は是正すべきですね。
しかし機会があるのに、個人の興味関心や選択の違いによって生じる差は是正すべきではないですね。個人の興味関心や選択の違いによる差を否定するのは自由を否定する事であり、個人の選択を踏みにじる事でもあります。
また男女は体格や身体の造りが違っていて、そのために衣類も違ったりします。これは不当な差別ではなく、当たり前の事ですね。
従来であれば男性しか着なかった服でも、女性向けのものは女性の体格や好みに合わせたデザインになっています。
ところが「ジェンダーレス」という概念は、当たり前の差や興味関心の違いを否定しています。
良い例は冒頭の記事の引用文。
その男女の体格差を無視して、服の色とデザインを同じにして、身長差だけ辛うじてつけています。
しかし身長だけ差をつけて、あとは全て同じでは参考になるのでしょうか?
男性の160cmと女性の160cmは違います。
華奢な男性の体格と、華奢な女性の体格は違います。
男女共に人気がある色やデザインは確かに存在しますが、そうではない色やデザインもあります。
衣服などに男女差をなくすというのは、必然的に無味無臭な無機質な色やデザイン、体格差や身体のラインを無視したデザインしか生まれません。
そして理由はなんであれ、「ジェンダーレス」と称した衣服やメイクが増えると、多数派のファッションの選択肢や種類が減るという現実が生まれます。
「男らしさ・女らしさの強制は駄目だけど、ジェンダーレスの強制は正義」
これがジェンダーレス・LGBT・ジェンダー界隈が目指すディストピア社会。
そして「自分らしさ」「男女に拘らない」「特定集団への配慮」という綺麗事で賛同している企業も、このようなディストピア社会を知らず知らずの内に創り出している気がしてなりません。
余談ですが旧ソ連生まれで米国に亡命し、反共産主義の作家アイン・ランド氏は、個人という概念が消失した未来を描いた短編SF小説「アンセム」を執筆しました。
旧ソ連で育った彼女は、集団主義がもたらすのは個人の排除、個性の排除、自由の排除だと悟りました。
この作品はジェンダーレスとは一見関係ないように見えますが、個人という概念を徹底的に排除したディストピア的な未来社会を描いています。作中の主人公たちに個人名はなく、「概念+番号」というふうに名付けられ、一人称が全て消えて「我々」というのに変わっています。
そこまで極端ではないにしても、ジェンダーレスを含む昨今の社会と被るところがあります。