〜『神宿る島』宗像・沖ノ島〜【世界遺産を色んな角度で見てみよう⑰】
こんにちは!永高の中学受験部屋です。早くも第17回ですね!
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今日ご紹介する日本の世界遺産は「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」です。
2017年に文化遺産として登録されました。
まずは場所から
九州北部の『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群は、「沖ノ島」「宗像(むなかた)大社」「古墳群」の3つの要素で構成される8資産からなる遺産です。
世界遺産について
宗像大社沖津宮(沖ノ島)
構成資産の中心となる「沖ノ島」は、九州本土から約60キロの玄界灘に位置します。島全体が宗像大社を構成する三宮のひとつで、宗像三女神の 長女神である田心姫神(たごりひめのかみ)が祀られています。
島では、大和王朝と百済の結びつきが強まった4世紀ごろから約500年間、朝鮮半島や中国大陸への航海の安全を祈る祭祀が行われてきました。
島全体がご神体とされ、上陸の禁止が現代まで続いているため、古代祭祀遺跡がそのままの状態で残されており、出土した約8万点の奉献品はすべて国宝に指定されていて、「海の正倉院」とも称されています。
宗像大社
宗像大社では、沖ノ島の信仰が「宗像三女神」という人格をもった神への信仰に発展しました。宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、沖ノ島と九州本土の間に位置する大島の中津宮、九州本土の辺津宮の三社からなります。
「神宿る島」として簡単に行くことができない沖ノ島を遠くから拝むために、宗像で沖ノ島に最も近い大島の北海岸には沖津宮遙拝所が作られました。
新原・奴山古墳群
5~6世紀ごろに築かれた宗像氏の古墳群であり、宗像氏の存在を証明するものです。宗像地域の人々は航海技術に長けており、大和朝廷は百済と交易する際に、その地方の豪族であった宗像氏を頼りました。
知っておきたい歴史知識
今回は、7世紀の日本と朝鮮半島の関係を確認してみましょう。
7世紀における朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済の三国が勢力争いを繰り広げていた
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高句麗や新羅に圧迫された百済は、日本と親交を深め、玄界灘をわたって大陸の優れた技術や文物を日本に伝えていたが、660年に新羅に滅ぼされた
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663年、日本は百済救済のため朝鮮半島に赴いたが、新羅・唐に白村江の戦いで敗れた
終わりに
いかがだったでしょうか?
今回は、「上陸禁止」の神秘に満ちた世界遺産をご紹介しました。
今でも様々なしきたりが守られているそうです。気になった方は是非調べてみてください!