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Fラン大学への環境適応・研究はコスパが悪い?

科研費シーズンでございますよ。

外部資金が欲しいのは事実ですけど、反面、研究費もらってもそれだけの研究成果を出せるのだろうか、という疑問と不安は常に付きまといます。

以前にFacebookに私の一週間の時間割を載せたところ、高校で教員をしている友人や国立大学で教員をしている友人から「えっ、これホントに大学の先生の時間割!? 高校教員並みじゃない!」と驚かれたことがありました。そう、純粋に授業コマ数が多いのです。

授業時間以外の時間もあるじゃないと言われても、一つの授業が終わったらまた次の授業の準備が始まるわけで、「授業をしていない時間」は決して「ヒマな時間」ではありません。1日に1分も研究が出来ないなんてことはしょっちゅう。

そこにさらに成果を求められる研究が上乗せされたとして、ちゃんと応えられるだろうか、と自問自答しちゃうのですよ。

科研費の書類を書くときは、本来は大風呂敷を広げるところからスタートするんでしょうけど、つい「そこまでは無理」という意識が上るんでしょうね。確実に出来るのはこれくらいと見積もってその安全圏内で風呂敷を広げるので、結果的に「こじんまり」したものになってしまう。この大学に来てから一回も科研費に当たっていないのもそこをクリアできていないからなのだろうと自覚はしているのです。

見渡してみると、私のいる学科だと科研費の応募をしている教員の方が少ない。というかほぼ皆無(私を含めて、もう一人いるかどうか)。

じゃあ他の先生が怠惰なのかと言ったら決してそんなことはなく、みんな授業だ実習だ学生対応だと朝から夜まで奔走しています。皆さんホント、頑張ってらっしゃる。

ただ、大学教員としてではなく「研究者」としては、どうなのだろうと思ってしまうのです。全力で授業をして、学生に満足してもらう。これは大事ですけど、それを毎日毎日続けて半年経ったときに得られるのは「この半年頑張って授業をした」というだけであって、研究は一歩も進んでいないことになる。

多くの国公立の先生方は「任期制」で、限られた時間内にどれだけ業績(研究成果)を出せるのかで継続の有無が決まるシビアな世界です。その先生方から見たら、研究する時間が取れないから研究できないなんて愚にもつかない言い訳でしょうけれども。

反面、私がいる大学は世間でいうところの「Fラン」で、
「教育>>>>>>>>>>>>>>>研究」ですから(苦笑)。

つまり、科研費どころか研究業績を出せと言われることもありません。学術論文がなくても、なんだったら学会発表をしていなくても人事評価には影響しない。あ、いや、正確に言えば年度末の個人評価では、論文があれば1点のポイントは付くのですけどね。学内の委員を引き受けても同じく1点なので、労力とは全く見合いません。

生物が環境に応じて形態、生理、行動を変化させて適応することを「環境適応」と言いますけれども、この大学という場所に環境適応するためには、「研究をやらない」というのは確かに最適解のような感じもします。限られたエネルギーの振り分け先として、研究というのはあまりにコスパもタイパも悪い。

そうはいっても大学は最高学府なのだから、「新しい知を生み出す」場所でもあると私は考えています。そこから自分の存在意義とかアイデンティティとかを考える羽目になり、結果的に悶々として学科会議で浮いてしまうのだろうなと思ったりもします。

といっても疎外されているわけではないですよ。念のため。