#31 電力の鬼と呼ばれて 松永記念館(神奈川県小田原市)
松永記念館は、電力王として知られた松永安左エ門(1875-1971年)の小田原自邸内に美術館を1959年に設けたのがきっかけ。
慶應義塾に学ぶ
明治8年(1875年)に壱岐で生まれる。福沢諭吉の「学問のすすめ」に感銘を受け、慶應義塾への進学を志す。19歳の時、父が逝去し、中退して家業を引き継ぐが、2年ほどで弟に託す。慶應義塾では福沢諭吉が日課とした散歩に参加し、「散歩党」の常連となる。学生ながら日本勧業銀行の株取引で儲けたり、学生自治会の創設を提案したといったエピソードが残っている。
実業家への道
25歳の時、「散歩党」の先輩であった福澤桃介の紹介で日本銀行に入行。総裁秘書のつもりで入ったはずが、営業部為替課に配属される。1年あまりで退職。桃介と共に丸三商会を開設し、神戸支店長となるが、4ヶ月で破産。
ついで福松商会を設立、明治37年の日露戦争勃発に伴い、石炭の取引が盛んになり、販売業で成功を収める。しかし明治40年、株式投資に失敗し破産。
明治41年に広滝水電気の監査役に就任。42年には桃介と福博電気軌道を設立し、専務になる。同年、九州電気設立発起人総代として広滝水力電気と合併契約を締結、取締役となる。大正11年には桃介が設立した関西電気と合併し、東邦電力を設立し、副社長となり、後に社長となる。53歳にして五体電力の一角となる。
電力の国家管理に反対する
政府は電力の発電と送電を国家が統制管理する方針を固めていく。第一次近衛文麿内閣の逓信大臣 永井柳太郎は電力国営論を唱え、官民共同の臨時電力調査会を設置し具体案の作成にあたるが、松永もメンバーとなるが、民間会社の自由競争による産業界の発展無くして日本の発展はないと考え、猛反対する。
ただ1937年に電力国家管理案が国会を通過、1939年には電力の国家管理を担う日本発送電株式会社が設立される。1942年には既存の民営電力会社を解散統合した国営配電会社が設立され、松永は東邦電力の解散を余儀なくされた。
戦後の松永
戦後、GHQに要請された電力再編成を為すため、1949年吉田茂首相は電気事業再編成審議会を発足させた。松永は全国を9ブロックに分割し、発送は発送配電一貫経営の民間会社を配置するという自案を提案。しかし政官財界は、日本発送電気株式会社の解体を伴う松永案に反対、答申書では松永案はあくまでも参考案として提出された。
孤軍奮闘の中、松永は持論を重ねて述べていき、1950年のポツダム政令により松永案が採用されることとなる。結果として、1951年には電気事業再編成令、公益事業令が公布され、9つの民営電力会社が発足した。
9つの電力会社が発足するやいなや松永は各社へ適正原価に基づく電気料金の算出を指示する。各電力会社から松永へ出された要望は平均して約7割の値上げだったという。この算出をもとに電気料金算定基準案をGHQに提出するが、各方面で反対の声が上がる。
結果として電気料金の値上げは2回に分けて、最終的に約6割の値上げが実施された。その資金により電源開発が進み、安定した電力供給体制への基礎が作られた。「10年先、20年先の電力要請見通した投資をするためには、料金の値上げが必要であり、それが日本の復興につながる」と主張した松永の見立て通りとなった。
その後も松永は電力中央研究所、産業計画会議、ERE(電気事業研究国際協力機構)、トインビーの「歴史の研究」完訳事業など生涯現役で活躍した。
特に産業計画会議で1956年-1968年にかけて十六次にわたるレコメンデーションは日本経済の将来構造に関し様々な提言を行ったもので、注目を集めた。高速道路の整備、専売制度の廃止、国鉄の民営化など、その提言の多くは実現されている。