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傷つくことを恐れていては、良好な人間関係は築けない。でも「傷つくのは怖い」というジレンマ。
昨日、youtubeでエーリッヒフロムの「愛するということ」という本の要約
チャンネルを見た。
理解できないこともあったけど、自分の中でわかったことは、
人は皆、愛されたいと思っているが、自分から愛を与えている人は少ない。
愛されるためには、自分から愛することが大切。
愛は、自分で努力し、技術を磨いてやっと身に付けられるもの。
愛することは簡単ではない。
ということだった。
「愛」は目に見えないし、抽象的だし、人それぞれ形が違うと思う。
でもこれを聞いてわかったことがある。
自分は「愛」を与えてもらうことばかり考えていて、自分から与えることをしていなかった。
なんでそうなのか考えてみた。
自分の感情を深掘りしていったら、一つ答えが出た。
拒否されることが怖かったからだった。
小学5~6生の頃、いじめられたことがあった。
それまでの自分はかなりわがままでけんかっ早く、年上だろうと関係なく突っかかっていた。
今考えると相当な自己中人間だった。
相手の気持ちなんて多分あんまり考えていなかったし、平気で人を傷つけていたと思う。
だけど、いじめられてこの性格は大きく変わった。
自分が否定されることがすごく怖くなった。
孤独だった。
いじめられていても、最初の頃は友達と遊びたかったし、みんなの輪の中に入りたかったので、遊びに誘ったり、みんなが遊んでいるところに混ざりに行ったりしていた。
だけど、鬼ごっこでは標的にされ、放課後は遊びに誘われなくなり、自分から誘っても遊んでくれる人はいなかった。
断られることが怖くなった。
そしていつしか、相手に期待するのをやめるようになった。
理由は簡単で、期待しなければ傷つかないから。
人を遊びに誘わなくなったし、自分から進んで一人になるようになった。
その方が楽だった。
誘って断られたら傷つくし、いじめられていたときは、みんなの輪の中に入ってもまったく楽しくなかった。
そして、いじめられなくなってからも、それは変わらなかった。
遊びに誘ってもらえたらうれしいけれど、自分から誘って断られるのが怖いので、いつも「誘われ待ち」をしていた。
だから常に相手の様子をうかがっていた。
相手が何かに誘ってくれたら、自分が「嫌われていないんだ」ということが分かるし、誘われなくてかったとしても嫌われていることにはならない。
完全受け身人間になっていた。
大人になった今も、その根っこは変わっていない。
自分から誘わなくなったわけではないけれど、断られないのを確信してから声をかけている。
もちろんそれでも断られることはあるけれど、嫌われていないとわかっているから傷つかない。
恋愛関係もそう。
最初は怖くて、自分から誘うことをほとんどしていなかった。
でも、それではダメだとわかったので、自分から誘うようにはなったけど、断られてもいいや~くらいに思うようにして、期待するのをやめた。
そして、断られずにデートができても、今度は嫌われないようにすることに必死で、気を使いっぱなし。
ずっと臆病のまま。
話が少し脱線したような気がするけど、愛の話に戻ると、
自分は傷つくことを恐れて、自分から与えることを考えていなかった。
与えよ、さらば与えられん
傷つくのは怖いけど、そこから逃げてばかりでは何も得られない。
むしろ傷つく覚悟がないと、相手と深い関係を築くことはできない。
断られたり、拒否されたりしてもいいという覚悟を持って周りの人と付き合い、もっと自分をさらけ出していこう。
(「自分から与えないと、与えてもらえない」という話と、「傷つくことを恐れていては、良好な人間関係は築けない」という2つの話が出てきて、まとまりが悪くなってしまった。。。次は一つずつ分けて考えてみます。)