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私信 窓辺歌会創刊号一首評
今年の9月に発行された同人誌『窓辺歌会 創刊号』に僕も参加させていただきました。窓辺歌会は札幌で定期的に(現在は不定期で)開かれている対面歌会で、個人的に今のホームだと思っているくらいお世話になっている場なので、同人誌に参加できたことをとても嬉しく思っています。
最近僕の私生活の方も落ち着いたので、同人の連作それぞれに一首評をさせていただきたいと思います。
連作にも言及する予定のため、私信とさせてもらいました。とはいえこの同人誌は連作だけでなく一首評やエッセイ、歌会録に吟行録など盛りだくさんの内容なので、ぜひゲットしてみてください。残りわずかのようです。
『夜を迎える準備』 河岸景都
夜にまつわる静かな一連。夜という確かにあるものの中に曖昧さを見出し、そこから五感を超えた感覚を掴もうとしているような印象を覚えました。
穏やかな気絶の後の浴槽は水を湛えてしんとしている
景としては、浴槽の中で眠ってしまい起きた時にはお湯ではなく水になってしまっていて静かだという単純なものだと思います。「穏やかな気絶」が風呂で眠ってしまうことの表現としてとても妥当なものに思えるのと同時に、自分の気絶に穏やかという判断を下している奇妙さも出ていて、非常に心惹かれました。下句が「浴槽」の描写に徹しているのも若干の不穏さを呼び起こしていて良いです。全体を通して、幽体離脱した霊体が客観視点から詠んでいるような印象を受けました。(「気絶の“後“」は第一感では醒めた時を想像しましたが、気絶した瞬間からその後と読めるようにもなっていると感じています)
『トラックアンドフィールド』 川嶋さち
陸上部の一連。登場人物と主体の視線の近さがこの一連の魅力であり、このことが良い学校詠の条件であるとまで思わされました。
夏空に膝・腿・胸でぶつかって一〇〇メートルの空気を飛ばす
100メートル走の歌。下句の描写から想像される景の力強さが良くて、速さが自然と想像されます。一連の流れからこの歌も他の歌と同様に他者を描いた歌と読んだのですが、主体が走っているとも自然に読むことができて、そのことから身体性も伴った歌になっているのが絶妙だと思いました。上句の特に「夏空に」は少々強引な気もしますが、夏空を自分の領域まで引き延ばすかのような若々しさにもなっていると好意的に取りました。(実際に自然に読めたので)
『食い意地』 草間凡平
とても美味しそうな一連。食べ物を描きながら主体の心が徐々に満たされていく過程を心地よく読めました。最後の歌がそうめん∈食べ物そのものへの愛着の歌なのも良かったです。
人生のように空虚な土曜日の昼おあがりよ、助六を食う
僕が「人生のように空虚な」みたいな比喩に弱いなあと思いました(だからそれだけの評にならないように頑張る)。この比喩は「土曜日の昼」にかかっていると読んでいるのですが、この比喩にはある種の納得感は確かにあるというか、「土曜日の昼」には「空虚な」・さらには「人生のように」という比喩が入り込む隙がある気がします。そうして付け込まれてしまった「土曜日の昼」を「おあがりよ」の軽さでもって滑らかに吹き飛ばしています。そして「助六」が持つ少しの特別感が「土曜日の昼」の特徴になって隙間を上書きしているようです。助六はスーパーなどで買ってきたものかなと思うのですが、そうなるとこの「おあがりよ」は自分もしくは何者かから言われたような気がする言葉になっているのも、歌の深みになっていると思います。
『筆名哀歌』 辻一郎
辻さん自身の筆名の由来を辿る一連。哀歌とあるけれど、さらっと歌い悲しみを全面に押し出していないところが好きです。前書きに「訴えたい」とあるのに、時々話の筋が逸れているのも好きです。
いじめられていたかというとそうでもなく生徒会長などもしていた
確かに生徒会長って、生徒会長をやってやるぞという心持ちがある程度ないとなれないけれど、活動には大人の手も借りるわけで強い達成感を得にくいから、振り返ったときにやったという事実だけが残るイメージがあるよなと思いました。そういう意味で「生徒会長」がばっちりハマっている歌だと思います。ということを考えてこの歌を選んだのですが、一首を抜き出して鑑賞し直すと、結構不穏さが覗きだすなと思いました。「いじめ」という強烈な単語から一首が始まるのに上句がひらがな続きのため視覚的に紛れるところ、「そうでもなく」の語用論(そうであった一面もあるということ)、「生徒会長」だけが漢字表記のためこの「生徒会長」を立たせようとする意思が見えるところ(そうでもなくのそうであった部分を隠そうとしているように見える)などが絡み合っていると思います。そんな不穏さを連作の展開が紛れさせているのは、かなり良い方向に働いているのではないかなと思いました。
『感情の生態』 高城顔面
感情を海の生態系に喩えた一連。浅瀬から深海→浜→広い海へとまとまりを持って展開していく様子が、科学館の映像アトラクションのようにダイナミックさを演出しているなと思いました。
それぞれの生態系で感情は私の海を巡り続ける
最後の一首。一連の中には、名前のついた感情(「儚さ」、「赦し」など)と名無しの感情(「感情」という表記)の両方が混在しており、前者は巧みな比喩で彩られている一方、後者は大戦映画のモブ的な扱いを受けている描写が目立ちます。ですが、そのモブ的な「感情」の歌が全体の半数ほどを占めていることから、この連作での主役はどちらかといえば後者の「感情」なのかなという印象を受けています。
この「感情」はそのまま読めば具体的な名前がつく前の漠然とした感情と言えそうですが、元となる経験や思考・行動までを引き連れた語になっていると感じました。引いた一首はその考えをより強固にしていて、なので三句の「感情」もこの広義の「感情」と読みたいのですが、「私」を巡る壮大な旅を締めるのではなく、ますます先の読めない魅力的なものとして提示する一首です。
『なべのこげ』 月島ひとみ
シチューを作る主体の、食材一つひとつに想いを託す一連。レシピを追うように進む展開や、分かち書き・開きの多い文体にカモフラージュされている、主体の切実さの現れ具合が絶妙でした。
にんじんのはっぱが
いちばんかわいくて
かわいくなれないわたしがわるい
最後の一首。この歌だけ唯一三行分かちになっているし全てがひらがな開きになっているしで、カモフラージュの強い歌です。なので下句の「かわいくなれないわたしがわるい」という強いフレーズが、それこそが主体の考えの行き着く先なのだということが、まっすぐに届きました。
かわいいという語の用法には、一般的な共通認識に基づくかわいいと個人が思うかわいいの2種類あると思っていて、「にんじんのはっぱ」は後者かなと思います。この2つは何が違うのか考えたときに、後者の方が個人の持つ意見である分、解像度が高い使い方といえるのではないでしょうか。と考えたときに、「わたし」に向かう「かわいくなれない」のかわいいは前者の一般的なかわいいでもあり、主体が焦がれる相手からの個人的なかわいいでもある気がして、それが混じって鋭いのに広く主体に(読者にも)刺さっているという気がしました。それが主体の「にんじんのはっぱ」に対する個人的な「かわいい」が呼び水になって発生したことも、複雑な痛ましさを演出していると思います。
『Festina lente』 豊國佳
引っ越しを重ねている主体の生活の一連。生活に根ざした実感が印象的です。タイトルは主体が友から送られた言葉のようですが、僕にとってもこの連作とともに思い出す大事な言葉の一つになりました。
外国で暮らす日は来ない予感すらスパイスにして遊ぶCostco
特大容量の商品が安価で売られている特徴的な業態のCostcoでの一首です。「予感」「スパイス」「遊ぶ」が良いと思いました。「予感」の確かではなさや「スパイス」程度のものであることから、「外国で暮らす日は来ない」というのはCostcoの商品に囲まれて思ったわけではなく普段からそう感じていることもあるのかなと思います。そのことが、「Costco」について説明した歌ではなく主体の生活を詠んだ歌に拡張させていると思いました。一方で、「遊ぶ」はCostcoのワクワク感を表す良い動詞で、主体が今「Costco」にいるという生活の中の瞬間を切り取ることも両立させている歌だと思いました。
『エピ』 ナカヒラカオリ
全編通してパンの一種「エピ」について詠んだ一連。尋常じゃない。あらゆる脱線をしながら最後はいい感じっぽくなっているのがもうなんとも言えなかったです。
パン界のレジェンド、アンパンマン ベーコン界のレジェンド、フランシス・ベーコン
一番常軌を逸していると思った歌です。題詠「ベーコンエピ」でこの歌はひっくり返っても出ないですね……もう一回ひっくり返したから出た歌なのだと思いました。やばすぎてこの歌が視覚的にベーコンエピを模しているように見えて来ました。
ベーコンエピの系譜を辿るとその頂点にアンパンマンとフランシス・ベーコンが鎮座していて、お前はそこを目指すんだぞとベーコンエピに叱咤激励をしている景が浮かびました。「フランシス・ベーコン」についてはもう何も言いません。
ベーコンエピにとって、パンとベーコンは可分な概念なんですか?とは一回聞いてみたいですね。
『否定してくれればいいよ』 久石ソナ
アパートの一室を中心とした生活を描いた一連。一首ごとの繋がりを丁寧に切っているような印象を受け、そのことからゆったりと膨らみのある時間が流れているような空気を感じました。
君からのファックスだろうジジジッジィ・・・紙の詰まらせ方でわかった
連作の始まりの一首です。「紙の詰まらせ方」は送信先からは介入できない事案なので、主体の照れ隠しのユーモアとしての「わかった」なのだろうなと読むことができます。「君からのファックスだろう」が歌の頭に来ていることから、ファックスが来たことに気付いた時点で「君」からだろうと勘づいているとも読めるかなと思いました。三点リーダーもファックスが詰まったことによる静けさだけでなく、主体の思考の移り変わりの時間も描いているのだと思います。この間はきっと数秒程度のことだと思うので、中黒を使ったゆとりのある三点リーダにしていることで、読者にその時間をトレースして見せているような表現になっていると思いました。
なのですが、「君」←多分法人ではなく個人的なやり取りでファックスを使っていることへの謎は残っており、僕はそれを無視して鑑賞していると言えます。これを説明することは難しいですが、この小さな謎が、連作の始まりのフックとしての効果を担っている気がします。それでも何か理由をつけるならば、この主体が面倒に思えるやり取りの手段を使う→他者との関わりに距離を取ろうとしていることの現れなのかなと考えたりしました。
『会話/孤独』 枡英児
長いです。
【趣味・特技】&&&&、***、===を貪る、@ー@
読めないです。
『水槽に入るつもりで会いにいく』 もくめ
水族館の一連。一首に生き物が一匹詠み込まれている作りの歌が続く作りになっていますが、細かい種の名前を韻律を保って詠み込んでいることで、平坦な印象を作らないことに成功していると思います。
威嚇してそよぐムラサキハナギンチャク 海の底にもストレスはある
上句と下句がはっきり分かれています。上句は「ムラサキハナギンチャク」の描写ですが、この生物の描写自体に主体の深い眼差しが光る歌が多いなと思いました。この歌でも、イソギンチャクが「威嚇して」いるように感じ取った主体の洞察に驚きました。たくさんのひだがそよいで一方向に向いている様子を表していると読みました。ムラサキハナギンチャクの先に威嚇されている別の生き物との関係を想定しないとこの描写は出て来ないですよね。さらに下句で「海の底」にある「ストレス」のことにまで想いを巡らせているところから、本当にこの主体は「水槽に入るつもり」なのだ(実際には入らないところでの観察になっている/入らない分別があるというところまで含めて)と感じました。
『Möbius』 森淳
帰省、そして結婚している妹と自分を比べる一連。同じ方向を向いている歌が並んでいる印象で、時間軸とともにテーマ性が推進力を持って進んでいくように読むことができました。
排水溝に流されていく髪の毛がほそくちいさくむすぶメビウス
表題歌かつ最後の一首。「メビウス」はメビウスの帯のことでしょう。「流されていく」→自然な状態で髪の毛がメビウスの帯をむすぶとはどういうことなのかと考えますが、スマホの充電器のケーブルを丸めて束ねると丸めるたびにねじれが発生して危ないというみたいに、髪の毛がくるんと一回りしている様子の描写なのかなと思います。
連作のテーマにもなっている、既婚の妹と未婚の主体の対比を端的に表す比喩として、髪の毛がむすぶメビウスの帯はこれ以上ないものにも思えるほどでした。「髪の毛」は遺伝情報も想起させます(連作中に父や母も何度か書かれることも手伝ってなお)。それでも髪の毛は私のものでしかないこと、そしてその後主体に妹とのズレを思い浮かばせた髪の毛は「排水溝に流されて」視界から消えてしまうことが、主体のどうしようもない孤立感を純粋な形で浮かび上がらせるような、とても切ない比喩だと思いました。