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君ならどう訳す? Challenge | 短編
How do you translate “Challenge the request”?
月に一度だけ、人知れず開催されている翻訳者の夜会。そこには、個性あふれる面々が集う。
今回は、ベテラン翻訳者トラさんの機嫌が悪い。その真相を明らかにしていくうちに……
テキスト全文
ファミレス
「まったくもってありえん!」
そう言うなり、トラさんは、生ビールを一気に飲み干した。
水曜日の午後五時過ぎ。ハッピーアワーを迎えたばかりのファミレスで、さっそくアルコールを飲みはじめたお客は、僕とトラさんだけだった。
「おかわり頼みますか?」
そうたずねたら、トラさんに睨まれた。
この銀髪の紳士は、同業の翻訳者だ。二十歳年上。翻訳会社が主催した懇親会で知り合った。それ以来、月に一回こうして会うようにしている。翻訳者になったばかりの僕にとって、トラさんは頼れる存在だった。怒りっぽいことを除けばの話だけど――
「なんでそんな質問をする?」
「ああその……ジョッキが空になったから、もう一杯飲むかと思って」
「ふん。いいか、よく聞け。今、私たちはハッピーアワーという戦場にいる。むしろ、どんどん頼まなきゃダメだろ」
トラさんはどこもかしこも戦場にしたがる。きっと自宅の仕事部屋も戦場だと思っているのだろう。
「まあ、落ち着いてください」
「落ち着けだあ? あんな誤訳を見せられてか?」
「誤訳したのは僕じゃありませんよ! とにかくおかわり頼みますから」
注文の邪魔をしているのが他ならぬ自分自身であるということにようやく気付いたトラさんは、少しだけ静かになった。
「で、どんな英語だったんですか?」
メニューを広げておつまみを精査し出したトラさんは、ぶっきらぼうに三つの英単語をつぶやいた。
「Challenge the request」
チャレンジ・ザ・リクエスト。どれもよく見かける単語だ。
「原文はシンプルですね。どんな訳になってたんですか?」
「『要求を受け入れる』」
まるで、忌まわしい呪文でも唱えるような口調だ。
「『要求を受け入れる』ですか」
「な、ひどい訳だろ?」
「んー、いきなりそう言われても、ひどいかどうか、ちょっと……」
「そんなこともわからんのか! いったい何年この仕事を――」
きんきんに冷えた生中に救われた。店員がジョッキを置くと、トラさんは、お説教そっちのけでかぶりついた。
初めて会った時、僕は翻訳者としての経験年数が一年そこそこであることを伝えたはずだ。トラさんはそのことをすっかり忘れているようだ。
「山盛りぽてっとフライひとつ。ちょい増しでな」
やれやれ。ハッピーアワーの戦場で孤軍奮闘しているトラさんを、僕は、翻訳の戦場へひっぱり戻した。
「Challenge the request。問題はないように見えますけどね」
「とんでもない誤訳だ」
『要求を受け入れる』という訳の、どこがとんでもないのだろう?
戦場を行き来しているトラさんはともかく、僕の翻訳者魂には、すでに火が点っていた。一年目の新米は、とにかく翻訳がしたくて仕方ない。
「考えてみる価値はありそうですね」
「これだけは覚えておけ。翻訳者に一番大事なのは『チャレンジ』精神だ」
決めゼリフを吐いたトラさんは、すぐさま二皿目の精査に戻った。
僕とトラさんの翻訳ゲームは、いつもこんな風に始まるんだ。
翻訳ゲーム
翻訳ゲームが始なるなり、僕はこう切り出した。
「ヒントをください」
トラさんの眉間にシワが寄る。ハードボイルド小説顔負けの強面である。にらめっこ勝負にもつれ込んだら、到底勝てそうもない。
「ほら、状況がわからないと、訳しづらいじゃないですか」
「コンテキストが必要ってことか?」
「そうです! 前後の文脈が必要なんです」
Please provide more context。世界中の翻訳者がお手上げのときに使う常套句だ。将棋の歩攻めにも似ている。クライアントに質問するときは、言葉を慎重に選ばなければならない。なんでそんな質問をするんだと、トラさんのように怒り出すクライアントも中にはいるからだ。
テーブルをトントン叩いていたトラさんは、状況を説明しだした。
「ある店に、一人の男がやってきた。その男は、数日前にその店で靴を買ったと言う。手提げ袋の中から長方形の箱を取り出し、フタを開けると、一足の靴が入っていた。靴のサイズが合わないから、返品したいと申し出た。そこで店員は、challenge the requestしたわけだ」
「なるほど。そういうことですか」
状況がなんとなくわかったぞ。
このrequestは、お客さんから返品を求められたことを指している。
それならば、原文のthe requestを『要求』と訳している点については問題がないはずだ。
「これでおしまいか?」
「あともう一つ――辞書を使ってもいいですか?」
トラさんの眉根がぴくつく。これは経験上、危険なシグナルだった。
翻訳者は辞書を引くのが当たり前の職業。でも、トラさんの目は「翻訳者としてのプライドがあるなら、今この場で辞書は引くな」と訴えている。
仕方ない。辞書は引かず、状況から正しい訳語を導き出すことにしよう。
君ならどう訳す?
まず、整理しておこう。
・原文は「challenge the request」
・訳文は「要求を受け入れる」
・お客さんから返品を求められている状況にあり、the requestは「要求」という訳で間違いない。
このことから言えることは――
「わかりました」
「(問いただす)わかったのか? 正しい訳が?」
「はい」
元気よく返事したものの、自信はまったくない。
それでも僕は、この夜会で行われる翻訳ゲームが好きだった。だから、全力でトラさんにぶつかっていこうと思う。
「じゃあ説明してくれ」
謎解き
「問題はChallengeをどう訳したかです」
「どうしてそう思う?」
Requestの訳語となっている「要求」に間違いがない以上、Challengeしか間違える箇所がないのは、自明のことだ。
でも、そう答えるのは、トラさんの問いかけに反すると思う。
だから、僕はこう答えた。
「Challengeはネガティブ・ミーニングにもなります」
「それは……どういうことだ?」
「Challengeという動詞に対応する日本語は『挑戦する』です。このため、多くの人が、Challengeをポジティブな言葉だと認識しています。たぶんその訳者も、positive meaningとして『要求を受け入れる』と訳したんだと思います」
「ふむ」
トラさんは、無機質な相槌を打った。
「ですが、英語のChallengeはちょっと違います。英語では、ネガティブな意味に使われことがあるんです」
「ふーん、そうなのか」
トラさんの相槌が、いっそう無機質になる。
「もしこの原文のChallengeが負の意味で使われているのだとしたら――『受け入れる』ではなく――『受け入れない』というニュアンスで訳さなければなりません」
「ということは――どういう訳になる?」
「要求に反対する、つまり『要求に異議を唱える』という訳語になります」
「なるほど」
トラさんの声音はちっとも納得していない感じだった。
「それがラスト・アンサーか?」
僕は静かにうなずいた。その後につづく短い間が、途方もなく長い沈黙に感じられた。
トラさんには言っていないが、僕は、技術系の翻訳者になるまでに十年かかった。技術分野なら、三年くらいで翻訳者になるのが普通だ。僕は、花見客が帰った後に蕾を開いた、遅咲きの桜だった。
等身大の生活を手放すか迷いもしたし、翻訳者になるのを諦めかけたこともある。でも、ある時に覚悟を決めて、サラリーマンを辞めた。だから、もう後戻りはできない。
トラさんは無表情を決め込んでいたが、その顔は、アルコールのせいで火照っていた。それとは対照的に、さっきまで、僕のジョッキから滝のように流れ出ていた水滴は汗ばむのを止め、黄金色のビールの中で明滅をくり返していた気泡は、いつのまにか跡形もなく消え去っていた。
トラさんの口元が、かすかに動きを取り戻す。
「Exactly」(ご名答)
気の抜けたビールの味
一瞬、何を言われたか分からなかった。
トラさんの険しい表情が綻ぶのを見て、ようやく理解した。
「この翻訳者が見当違いの訳をしていたことが、やっとわかったか」
と言って、呵々大笑するトラさん。
「アプローチは違うが、たどり着いた答えは同じだ。さすがだな」
誰よりも辛辣なトラさんの褒め言葉は、誰よりも心に響く。
「まあ、強いて問題があるとするなら、ハッピーアワーにもかかわらず、ビールを飲んでいないことぐらいか」
そう言って、からかうように笑う。
僕はジョッキを手に取り、ビールで喉を潤した。
「名詞のChallengeには『難問』という意味がある。難しい問題を乗り越える行為が、Challengeという動詞になるんだ」
ずっとほったらかしにされていたビールは、炭酸が抜けて生ぬるかったが、翻訳がうまくいったときの味わいは最高だった。
「原文がもし『受け入れる』ということを示しているなら、たとえばacceptのような、もっとわかりやすい単語を使っていたはずだ。ところが、ここではそういう単語を使っていない。翻訳者なら、そこで引っかかる。Challengeを『受け入れる』と訳していいのだろうか、と」
「Challengeに『受け入れる』という意味はあるんですか?」
「ない。少なからず私の辞書には見当たらなかった。だから、この訳者は考えて、自分なりに訳したということが推察される。まあ、考えただけマシだ。中には辞書に載ってる言葉を機械的に使う輩もいるからな」
トラさんは、落ち着きを取り戻していた。
「それにしても、なかなかやるじゃないか。それでこそ、長年翻訳を続けてきた甲斐があるというものだ」
生中をおかわりするのは、今度は僕の番だった。
トラさんの中の僕が、若葉マークのついた翻訳者ではないということが、何よりも嬉しかった。
もしかしたら、この人は、僕の翻訳経験が長いことに気付いているのかもしれない。
「でも、恐いですよね。内容次第では、正反対の訳になってしまうなんて」
「翻訳者の不断の努力にもかかわらず、真逆の訳になってしまうことがなんと多いことか。長文の中に忍ばされたnotやnoを見落としただけで、とんでもない誤訳につながってしまう不幸をこれまでに何度も見てきた。
だから、翻訳をするときは重々気をつけねばならんのだ。
(偉そうな咳払い)翻訳者たるもの、慎重にして大胆、硬質にして柔軟な訳ができるようにだなァ、日々研鑽を積んで―――」
テーブルの上にある携帯電話が振動している。
細長い筐体をつかみ、液晶ディスプレイに目をやるトラさん。
「どうしたんです?」
「クライアントから翻訳会社へ問い合わせが入った」
「問い合わせって、訳文についてですか?」
返答なし。
さっきまでアルコールで赤らんでいた顔が、みるみる青白んでいく。
「だ、大丈夫ですよ。きっと、そんな大した問題じゃありませんって。ほら、ハッピーアワーだし、どんどん飲みましょうよ~!」
「トイレに行ってくる」
こころなしか、立ち上がったトラさんの背がいつになく縮まっているように見えた。
トラさんは果たして、クライアントのChallenge(異議申し立て)を受け入れることができるだろうか?
(おわり)
「翻訳者たちの万歌」シリーズ
聞き伝てではありますが、翻訳者が体験した「翻訳」の喜び、怒り、楽しみ、嘆きを、時には赤裸々に、時には柔らかいオブラートに包んでお届けします。たぶん英語学習の役に立つでよ~