意味が繋がらない夢の”むず痒さ”を表現する映像【RETURN TO REASON/リターン・トゥ・リーズン(1/24公開)】
【1月20日鑑賞日記】
1月24日公開、マン・レイ監督「RETURN TO REASON/リターン・トゥ・リーズン」を試写にて鑑賞。
20世紀の前衛芸術家、マン・レイが1920年代に発表した短編無声映画4作品に、映画監督ジム・ジャームッシュとプロデューサーのカーター・ローガンによる音楽ユニット「SQÜRL (スクワール)」の即興演奏がつけられたオムニバス作品。
『ひとで』『エマク・バキア』『理性への回帰』『サイコロ城の秘密』という4作品が含まれる。
公開当時は無声映画だったものに、約100年後の新しい音楽がつけられるという試みは面白い。
作品自体はほぼ今回が初見だったが(4分ほどの短編「理性への回帰」のみ、学生時代にどこかで見た気がする)、マン・レイのシュールで夢想的な試みが面白く、楽しめた。
映画が根本的に持つ夢のような不条理な側面を、まだ映像というものがそこまで一般的でなかった時代に表現していたことは、シンプルに驚きだ。
英語には「Liminal(リミナル)」という「境界性」を表す便利な言葉があるが、画面に映し出される映像の意味がつながる/つながらない、という微妙な境界を表現しているという点では、この言葉が一番しっくり来る。
この境界性には「心地よさ」と「怖さ」のどちらもあり、ずっと脳みそのかゆいところをくすぐられているような独特な感覚になる。
基本的にカメラやレンズは、人類が見たいものを見て記録するために発明されたはずだが、マン・レイの作品内では観客が見たいものにピントが合っていなかったり、あえてぼやけていたりする。(特に人物の顔は様々な手段を使って、のっぺらぼうのようにぼかされている)
夢の中に出てきた誰かの顔を見ようとしても誰なのかはっきりせず、絶対知っている人のはずなのに、誰なのかわからない。
夢に出てきた場所が絶対に知っている場所なのに、どこなのか思い出せない。
この作品たちが持つのは、あのむず痒さの感覚だ。
ちなみに、肝心のジム・ジャームッシュらによる音楽だが、これにはすこしがっかりした。
映像に”合わせて”流れるのは、エレキギターのドローン音(”プロペラのついたカメラ機器”の方ではなく「ドローン音楽」と呼ばれる音楽ジャンルの方)のような音がメインで、ミュージシャンが演奏している姿が容易にイメージできてしまうものが多い。
「映像に”合わせて”」と書いたが、映像に新たにつけられた音楽は、画面に映し出される図形に合わせてリズムや音色を表現していて、あまりに”ぴったり”すぎると感じた。
もちろん「映像に音楽をつける」のであるから、「映像に合った音楽」をつけるのが普通の発想だが、シュルレアリズムにおいてはこの安直さはむしろ映像の「非現実性」を減退させているようで、果たしてそれがあの「むず痒さ」を表現できているのかというと疑問だ。
先に書いた「境界性」の「つながっている/つながっていない」という視点で言えば、映像と音色の意味がつながってしまっていると感じ、新しい視点を与えるところまでは至ってない。
じゃあ自分だったらどうするか、と考えたが、僕ならはっきりと”音楽”を流してしまうと思う。それもポップソングを。
もともと違う文脈で作成された音楽と映像が生み出す「意味と意味のズレ」や「齟齬」が楽しいはずだし、より一層「むず痒さ」を表現できると思う。
ジム・ジャームッシュさん、このアイデア、どうですかね?