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ニュースの物語性とジレンマ【セプテンバー5(2月14日公開映画)
2月14日日本公開予定、ティム・フェールバウム監督「セプテンバー5」を試写で鑑賞。
1972年にドイツミュンヘンで行われたオリンピック会期中、パレスチナ武装組織によって実行された選手村内でのイスラエル選手団人質テロ事件を、現地から報道中継することになったアメリカのTV局クルーの視点で描く実録サスペンス。
結論から言うと、事前情報から予想していたよりもかなりソリッドで淡白な映画だった。
本作で描かれるのは、(たまたま)事件現場となった選手村の目と鼻の先にあったTV局の中継拠点内での出来事と、当時実際にTVで放映されたニュース映像のみであり、90分台という上映時間のタイトっぷりに驚いた。
選手村内での犯行の様子は劇中では一切演出されず、言葉もよく分からない異国の地ドイツの即席TVコントロールルーム内で、事態が把握できないまま右往左往するアメリカ人テレビクルーと放送責任者たちの姿だけが描かれる。
それもそのはず、TV局が現在進行系の事件を中継するという行為は、歴史的にもこの事件が初だったらしく、そんな前代未聞の仕事に突如として挑むことになった彼らの姿は、ときに切実で、ときにコミカルだ。(選手村に潜入するため、必死にオリンピックアスリートのふりをしようとする下っ端スタッフの姿には笑った)
ましてや彼らは、たまたま現地に居合わせたスポーツ報道チームである。
競技の結果をドラマチックにストーリーテリングすることを生業とするクルーであり、政治報道のほの字も知らない者たちばかり。
最初は「これは特ダネだ!」と興奮気味に、他の報道機関の手の届かない場所にカメラを据えることに成功したものの、段々と「あれ…?これTVに映してもいいんだろうか…」と「報道」の姿勢が揺さぶられ始める。
刻一刻と変化する状況の中、彼らが報道のあり方を手探りで見つけようとする姿はとてもスリリングだ。
ボタン一つで全世界が見つめる映像が切り替わるコントロールルームの中で、それが正しい行いなのかどうなのか、じっくり判断する間もないままに生中継は進んでいく。
また観客も感情の整理がつかないまま、彼らと共に激動の1日を体感できるように本作はできており、意図的にこちらの感情の整理がつかないようにテンポよく編集されてある。
ここにこの映画の淡白さの理由がある。
個人的にはもう少し、「報道そのもの」に対する明確な視点があったらと思ったが、劇中何度も登場人物が口にする「物語」という単語(「これは誰の物語だ?」「私たちが物語を語るんだ」等)に、「ストーリーテリング」と「公平な報道」の間に漂う、危うさというジレンマを感じた。