Sacred Run ①
自分が体験したことのある、セイクレッドランについて書く。
これが、なかなか・・?なのです。(・・;)
つまり…私は、よくは解ってない、かも? だなぁ・・
単に、おもしろかったなぁ~~で(;^_^A
私が初めて、「セイクレッドラン」なるものに参加したのは1988年だった。
この年、私は前年に八ケ岳の山小屋で働いて得たお金で東京の千石にアパートをかりていて、まぁ、いろんなことしてたりして、そんな中で人つてに、このランニングのことと、'88の「命の祭り」の、両方の情報をえていて、 どうせ参加するなら最初から最後まで関わりたいと思い、結局ランニングの方に決めたのだった。
そして、前橋の弁天通りのビルを借りたグループの、橋爪さんから8ミリビデオカメラをかりて、最初から最後までずうっと撮影し続けた。
私は、アメリカ・インディアン・ムーウ゛メントのことも、デニス・バンクスの名も日本山妙法寺のことも、その関わりも何もかも、まったく知らないで、まったくの無知のまま参加したのだった。
けれども、 私はビデオ撮影をしていたから、ランニング終了後、『ホピの予言』という映画を作っていた宮田雪氏がこのランニングのビデオを作る時に、 映像提供の立場からビデオ作りに参加して、しかるに、ランニングの映像を何度も見直すことになり、このために、ランニング終了後に、私はいろいろと勉強することになった。
アメリカインディアンたちのムーウ゛メントの一環から発生してきたランニングに、なぁんで日本山妙法寺の庵主さんがいるのか?とか、 ひいては日本山妙法寺とヒッピーとの以外?な繋がりとか、ロンゲストウォークのこととか、アメリカインディアンムーウ゛メントやデニス・バンクスとは?といったことなどなど、 それは多岐に渡った。
そんなことから、U.S.Aという国のことにも、より関心をもった。
1990年の、ヨーロッパ、ロンドンからモスクワまでのランニングのことも事前に聞いてはいたのだけれど……
参加しなかった。
今から思えば、多少の無理をしてでも行っておけば、、との思いがないではない。
とにかく、次に私が参加したのは1991年のカナダだった。
ついで、翌1992年も。
さらに、1995年、
1998年は三日間だけ、
それから、2000年と 2006年と、計七回のランニングに関わったわけだ。!!
セイクレッドランは、
基本的にリレー方式だが、
クロウホップ方式と呼ばれるやり方がある。
たとえば、三台の車で210キロをカバーするとした場合、 それぞれ、一台が70キロづつ。 二台めの車は70キロ先まで直行してそこからランニングをスタート、三台めは140キロ先からスタートし、同時に何人かが走っていることになる。 一台に五人乗っているとしたら、五人で70キロをカバーすることになる。
一人のランニング参加者が走る距離は自己申告制で、
走りたい(OR走れる)距離を申告しておく。 とにかく五人で70キロを走ればいい。
このクロウホップ方式は、日本ではさほどでないが、アメリカやオーストラリアの大陸で、一日の移動距離を稼がなくてはならない場合に、とても有効だった。 いや、日本でも、今日は早く到着しておく必要がある時に使われた。 各宿泊所で、サポートグループの人たちとの交流会があったりして・・
この、自己申告制ランニングは、リレー方式においてもしかりで、 あらかじめランニングコーチ?なるものが、参加者から走りたい距離を聞いておいて、その日の移動距離からわりだしておく。
走らない(OR走れない)参加者は、キッチンカーや荷物車とかで、そのスタッフになったりして、直接その日の宿泊所へ直行する。
このランニングのトータルコーディネーターがデニスで、今日は女性のみのランニング・ディとか、あるいは今日はロンゲスト・ラン挑戦日、とか、が設けられる。
一日のスタートは、サークルになってセイジの葉を焚いて祈り、 終わりもまた祈りで終わる。
走る、という行為は、ネイティブアメリカンにとって祈りの儀式であり、 伝統的なものでもあった。
ランナーは、長老たちのメッセージを運ぶ役目をおい、しかるに、各部族との仲立ちをするための語学にも通じている必要のある、いわば英雄だった。
しかるに、自らの肉体を投げ出し大地との絆を深めるためのサクリファイスの行為でもある。
ランナーは、自らの肉体の限界に挑戦していくことを求められる。
走る時間は問題ではない。
自らの肉体を投げ出し、メッセージを携え走っていくことが、重要なのだ。
つづく・・