合気道に関して。
「合気道」という言葉の語源には良く判らないところがある、と思っていた。
私は、長野県佐久市で、遠藤征四郎先生門下生として、(財)合気会の合気道を習ってきている。
2002年夏に佐久市を出てから、各地での合気道会(「合気会」系列)で習練したこともあった(千葉県松戸&船橋和歌山県岩出市千葉県成田市)し、遠藤先生以外の師範のセミナーにも参加したこともあったけれど、佐久市で習い始めたことが基本的に私の合気道になっている(と思っている)。ともかく、養神館や心身統一合氣道とかは知らないし(体験したことない)、ましてや大東流しかり。
なので、植芝盛平開祖(財団法人合気会創設者)は植芝盛平先生とお呼びします。
その他の方々は略称させていただきます。
さて。
植芝盛平先生は、和歌山県田辺市出身で、田辺の人達と共に北海道白滝村へ入植していますが、その時期に武田惣角と出会っている。
そこで入門、武田惣角の大東流合気柔術を修練しているわけだが、それ以前にも、主に剣道を修練していた。
その後、大本教の出口王仁三郎のもとで、更に研鑽をつんだ。
この大本教の影響が植芝盛平先生の武道をより精神的なものにしたと思われる。(勝ち負けに拘らず試合がないとか)
そして、海軍大将竹下勇たちの招待もあって、東京へ移住、(財)皇武会設立、戦後になって(財)合気会に改称している。
太平洋戦争中、武道界統制(?統合)による、
大日本武徳会が組織され、これに皇武会も参加、平井稔という人が派遣された。
この時、大日本武徳会に「合気道部」という部門が設置された、様だ。
平井稔は、戦後、大日本武徳会合気道部を継承するかたちで、光輪洞合気道を創設している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E8%BC%AA%E6%B4%9E%E5%90%88%E6%B0%97%E9%81%93
大東流合気柔術については、その本部(とされる)HPに、その説明があった。
https://www.daitohryu.com/history01
「大東流」の名称についても書かれてある。
「大東流」なる名称についてはよしと思う。
「合気」については。?
「合気」という言葉は、出口王仁三郎が植芝盛平先生に伝え、武田惣角が大本教本部の京都府綾辺にやって来た時に、植芝盛平先生が武田惣角に伝えた、という説もあった・・?
それで、武田惣角は「大東流柔術」に「合気」を加えた、と。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%B0%97
しかし、
色々検索してみたところ、武田惣角の大東流合気柔術以外の、「大東流柔術」なるものが別途にあると判明。しかし、その大東流柔術については良く判らなかった。
大東流柔術
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E6%B5%81%E6%9F%94%E8%A1%93
武田惣角も、武道のみならず、密教修験道等を修練している者で、「合気」は「気合い」に通じ、転じたものと思われ、
武田惣角は会津藩お留め技を西郷頼母から習ったとされていたが、
「大東流合気柔術」は武田惣角自身の創造武道、との説が、今では有力となっている、そうだ。
大東流合気柔術
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E6%B5%81%E5%90%88%E6%B0%97%E6%9F%94%E8%A1%93
これ以外にも、
武田惣角によらないものとして、「武田流合気之術」もあった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%B5%81%E5%90%88%E6%B0%97%E4%B9%8B%E8%A1%93
更には、西郷派大東流というのも。。!?
これがまた、解らんのだよねぇ~
開祖としている山下なんとかという人のことも判明してないし。だいたいが、自流のルーツが判明しないなんて、そぉんなことがあるんだろうか??
二代目の曽川とかいう人がまた判らない人だし、この二代目は初代から何も聞いてなかったのだろうか?
全くわけ解らん流派、だな。
「合気」という言葉は昔からあった様だ。
「合気柔術」とか「合気之術」とか。
そして、「合気道」。
「合気武術」を名乗った時もあったが、
これは、やはり、戦後になって(財)合気会が設立されたときから、正式に(?。定着、流布)生まれた名称、と思われる。。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E8%8A%9D%E7%9B%9B%E5%B9%B3