『物語の役割』
世の中には、フィクションを(何ら)必要とはしない(映画を観ないとか小説も読まないとかの)人たちが存在している、ということは、私にとってはなかなか理解困難なことなのだった。
翻って、
では、どういうわけで、それは必要とされるのだろうか?
そんな思いの参考になった本。
そして、ことに、現実を記憶していく過程においての記述。
・・・
だれもが『物語』を紡ぎ出せるとはかぎらない、だろうとの思いがある、けれど。
小川洋子、著『物語の役割』、筑摩書房・ちくまプリマー新書、より。
帯には【人間は、なぜ物語を必要とするのか?ーーその秘密を作家が解き明かす】
裏表紙に。【私たちは日々の受け入れられない現実を、自分の心の形に合うように転換している。誰もが作り出し、必要としている物語を、言葉で表現していくことの喜びを伝える。】 三部構成。
第一部、物語の役割
第二部、物語が生まれる現場
第三部、物語と私
【まえがき】より。 この本は本として出版するために書かれたものではなく、小川洋子の講演集です。 筑摩書房からの提案を作者が受けた時、はじめは尻込みしたそうだ。
最終的に出版を決めた理由はただ一つ、「本書を手にとった方が、改めて物語の魅力を確認し、物語の役割に目覚め、ああ、本を読むことはなんと素晴らしいことであろうか、と思ってくれたらとの願いがあったから」。
まえがきには2006年6月11日、とある。
第一部は東京の三鷹市芸術文化センターでの講演。
まず藤原正彦先生との出会により、数学者に対するイメージが変わったことから、数(数学)に予想もしなかった不思議・驚きが隠れていることを知り、これは小説の題材になると直感、(数の世界が才能豊かな数学者たちがコウベを垂れる程に美しいものなら、その美しさを言葉で表現してみたい)、
そこから始まって数学者を観察するような関係の家政婦を登場させようと思い付き、友愛数を知ってこの友愛数を眺めているうちに、220は二月二十日ということにして家政婦の誕生日にしよう、284はその数学者が論文を書いて賞を貰った時の記念品の腕時計に刻まれている番号にしよう、そして、その数学者が食卓の上で紙に鉛筆でその数字を書いて『君の誕生日と僕の腕時計に刻まれている数字は友愛の契りを結んだ特別な数なんだよ』と家政婦に教える場面が浮かんだ、そうすると、もう自然にその人の声の感じとか立ち振る舞いとか、二人の関係がみえてきた、そこから一気に物語の向かうべき方向が明らかになって小説じたいが動きだし、『博士の愛した数式』が生まれ、
そして、
『物語は現実日常生活にいくらでもあると語る。
現実を記憶していく時、
ありのままに
記憶するのではなく、
自分にとって嬉しいことは膨らませ悲しいことは小さくして、
現実を物語にして自分の中に積み重ねていく、』
として誰もが物語を作り出しいるとし、柳田邦男が自殺した自分の次男のことを書いた本や日航機墜落事件で息子を一人で乗せてしまって亡くした母親のことやホロコースト文学などを紹介して、
人間にしかできない心の働き、物語を獲得するための苦悩、人間が作り出す物語の尊さ、に触れ、
第一部のラストに、作家は自分が全能の神になって登場人物を操って小説を書いているのではなく、自分以外の何かが働いている、それは数学者がいろんな数字にこめられた秘密を探しだすのと同じように、作家も現実の中にあるけれども言葉にされないために気付かれないでいる物語を見つけだして、書いていく、自分が考え付いたものというわけでなく、実はすでにそこにあったのだと謙虚な気持ちになった時、物語が舞い降りてくる、と。
第二部は、京都造形芸術大学で。
芸術活動に関わっている学生に向けて喋ったもので、創作現場に即した具体的な内容。
第三部は芦屋市のルナ・ホールにて。
自分の子供時代の読書体験を通して、物語と自分との関わりについて考えたこと。
記憶に残る最初の本との出会いとして、幼稚園の面接で初めて教室に入った時、そこにたくさんの絵本があって驚いた、ことから書いてある。
小学生時。体が小さく動作も鈍かった著者は、制服を着替える際ボタンをつけるのにもたついていて、(それだけじゃなくて、給食を食べるのも算数の問題を解くのも他の皆より遅かった。愚図な自分が嫌だった)、ある時、ブラウスのボタンを付けながら一つの物語を作った。
ボタンとボタンホールは仲良しでいつも二人で一つ、ところが、ある日糸が切れてボタンが外れて転がっていってしまった、ボタンホールは一人になって嘆き悲しむ、一方ボタンはベッドの下やタンスの裏を転がっていろんな冒険をする、やがて母がボタンを発見してまたブラウスに縫い付けてくれた、仲良しの二人は無事再会しボタンは自分の冒険をボタンホールに話してあげました、めでたし・・作者はボタンをはめるたびこのお話を思い、ボタンを上手くはめられないのはボタンが冒険に出ているからで自分のせいじゃないと言訳できて、愚図な自分を惨めに感じなくて済むようになった、、と。
『ファーブル昆虫記』と『トムは真夜中の庭で』の二つをあげて、自分は世界の中の一部にすぎないとの思いと、 ぼぉ~として夕陽を眺める、そんな純粋な感動は自分だけに授けられた宝物との思いの、矛盾しながら共存する思いを語り、
そして、小説を書くことの意味・決意として、次のようにこの本を結んでいる。
作者の本の外国語訳を仲介してくれているエージェントから送られてきた『博士の愛した数式』のイスラエル版の契約書にそえられていた一文
【同じ本で育った人たちは共通の思いを分かち合う】 (この契約は本来もっと早くに済んでいるはずだったが、ヒズボラがイスラエル兵士二人を拉致したことに端を発したイスラエルのレバノン侵攻のために遅れていた)、と語った後、
【民族も言葉も年代も性別も違う人間がどこかで出会った時、お互いの心を近付ける一つのすべは、どんな本を読んで育ったかを確かめることかもしれない。いつかそういう場面で私の書いた小説を挙げてくれたら、作家としてこんなに大きな幸せはありません。自分が死んだ後に自分の書いた小説が誰かに読まれている場面を想像するのが、私の喜びです。そういう場面を想像していると死ぬ怖さを忘れられます。
だから、今日も私は、小説を書くのです。】