追悼 トリート・ウィリアムズ 『セルピコ』&『プリンス・オブ・シティ』 シドニー・ルメットがえぐったNYの警官汚職事件の表と裏
文:町山智浩
初出:『映画秘宝』2013年4月号
『狼たちは天使の匂い』収録
映画『ブギーナイツ』(97年)の主人公ダーク・ディグラー(マーク・ウォールバーグ)の部屋の壁にはブルース・リーと一緒に映画『セルピコ』(73年)のポスターが貼ってある。長髪にヒゲで、レイバンのサングラスを額の上に引っかけたアル・パチーノの顔のアップだ。このシーンは、『ブギーナイツ』の舞台である77年に作られた映画『サタデー・ナイト・フィーバー』で、主人公トニー(ジョン・トラヴォルタ)の部屋の壁に『セルピコ』のポスターが貼ってあるのが元になっている。
ウェス・アンダーソン監督『天才マックスの世界』(98年)でマックスが高校の演劇部で上演している芝居も『セルピコ』だ。その他、『セブン』や『インサイドマン』など、セルピコという名前が「清廉潔白な警察官」という意味で口にされるアメリカ映画を数え上げたらキリがない。
アメリカだけじゃない。トニー・チャー主演のタイ映画『マッハ!!!!!!!!』(03年)には、セルピコがプリントされたTシャツを着た男が出てくる。調べてみたら、この柄のTシャツは今も売られている。セルピコがかけていたサングラスは、今はセルピコ・モデルという名になったし、セルピコが映画の中でかぶっていたバケツのような帽子もセルピコ・ハットという名で売られている。『太陽にほえろ!』のロッキー刑事のヒゲと帽子もセルピコの真似だろう。ロッキーなのに。
シドニー・ルメット監督『セルピコ』はなぜ、それほどまでのアイコンになったのか?
●体制内反体制刑事セルピコ
『セルピコ』は1971年にニューヨークの警察官の汚職を暴露する証言を行ったフランク・セルピコという実在の私服警官の伝記映画。彼は警官だが、60年代のカウンター・カルチャーに影響を受けてヒッピーになる。髪とヒゲを伸ばし、ジーンズをはいた刑事は当時、異端だった。
カウンター・カルチャーは政府や権力、体制に反抗した。セルピコは警官たちの間で当たり前になっていた収賄に反抗する。頑なに賄賂の受け取りを拒み続ける彼を仲間の刑事たちは怖がる。
「賄賂を受け取らない仲間をどうして信じられるんだ?」
自分を告発するかもしれないからだ。セルピコは同僚たちを安心させるためにマフィアから賄賂を受け取るが、自分のものにしないで、他の警官たちで山分けさせる。
「賄賂を受け取らないことで罪の意識を覚えるなんて」
孤立無援と思われたセルピコもやっと同志を見つける。キャリア組のブレアとセルピコは警察の腐敗を地方検事に報告するが、ニューヨーク市警のコミッショナー(本部長)はそれをもみ消そうとする。
焦り、苛立つセルピコから恋人が逃げていく。
「もう耐えられない。あなたは孤独に、自分の大義のために闘い、自分を責め続けるから」
ついにセルピコは警察署内で刑事からナイフを向けられる。
「貴様のように仲間を売る奴は、その舌を切り取ってやる」
逆にセルピコはその刑事をぶちのめす。
「何が起こるかわからないぞ」
1人の警官がセルピコに警告する。
「警官がお前を撃つわけじゃない。だが、誰もお前を助けない」
それは現実になる。麻薬の売人のアジトに踏み込んだセルピコはドアに挟まれ、助けを求めるが、他の刑事たちは黙って動かない。売人が拳銃を取り出し、セルピコの頬を撃った。
弾丸は脳を破壊しなかったが、セルピコの右半身には麻痺が残った。
回復したセルピコは調査委員会で証言し、警察のひどい腐敗の実態が白日の下にさらされた。セルピコは反権力の英雄になったが、命を狙われており、ヨーロッパに逃げるしかなかった。
『セルピコ』は70年代アメリカン・ニューシネマのひとつだ。ニューシネマの特徴は体制への反逆と挫折。セルピコは巨大な権力に立ち向かい、敗北する。セルピコの孤高の戦いはドン・キホーテのようでもあるし、その髭や髪型は一人で人類の罪を背負って処刑されたキリストをも思わせる。犯罪者をガンガン射殺するダーティハリーが登場する前、こんな刑事がアメリカのヒーローだった時代があったのだ。
●裏セルピコ『プリンス・オブ・シティ』
しかし、セルピコはあまりに「正義」すぎる。
同僚に泣きつかれても、恋人に捨てられても、セルピコの信念は揺るがない。彼はたしかにキリスト並のカリスマだ。常人ではない。セルピコは血や肉でできた仲間や恋人との絆よりも、自分の信念を選び、孤独になった。その強さが普通の人にあるだろうか?
ルメット監督も、その点が不満だったそうで、8年後に、セルピコと同じ事件を扱った映画、『プリンス・オブ・シティ』(81年)を作った。セルピコの告発によって始まったニューヨーク市警の腐敗追及に巻き込まれた警官、ロバート・ルーシの体験を、当時、市警のコミッショナー補だったロバート・デイリーが聞き書きしてまとめたノンフィクションが原作だ。
『プリンス・オブ・シティ』は『セルピコ』のような人気はない。忘れられた映画だ。上映時間168分、セリフのある登場人物126人という大作にもかかわらず、アクションなどの娯楽要素はほとんどない。主人公もセルピコのような清廉潔白なヒーローではなく、賄賂を受け取る汚職警官の1人で、その彼が心理的に苛まれ続ける煉獄のような3時間弱だ。
しかし、楽しいだけが映画ではない。ここでは刑事の実話を通して、人間を取り巻く2つのルール、正義と仁義の相克が描かれている。
ロバート・ルーシは映画の中では、ダニエル(ダニー)・チェロという名前に変えられている。ダニー(トリート・ウィリアムズ)が所属するNY市警麻薬課のCIU(特別捜査班)の刑事たちは、プリンス・オブ・ザ・シティ、つまり「ニューヨークの王子様」と呼ばれていた。イタリア製のスーツにローレックスの金時計で、ヤクザよりゴージャスに着飾っていたからだ。
最初に、CIUの腐りきった仕事ぶりが描かれる。中南米系の麻薬ギャングのアジトを襲い、麻薬で儲けた大金を押収すると、半分を着服して刑事たちで山分けし、残りの金で保釈金を払って犯人たちを拘置所から出して、飛行機に乗せて母国に逃がしてしまう。無茶苦茶だ。 立派な家に住み、キューバ産の葉巻を吹かすダニーに、麻薬中毒の弟が不満をぶつける。
「ローレックスの時計はいつも正確だなあ! それ、どうやって買ったんだ? 兄貴たちとギャングの違いは警察のバッジだけだ。それでも公僕のつもりか?」
父も冷たくダニーに言う。
「お前の弟の言う通りだ」
貴族のように振る舞いながらもダニーは心の奥でいつも罪悪感に苛まれ、夜は眠れない。
そんなある日、ダニーは地方検事補リック・カパリーノから呼び出される。警官の汚職捜査に協力しろという要請だ。具体的には、体に隠しマイクをつけて、マフィアと刑事の賄賂のやり取りの現場を録音しろというのだ。ネズミ(スパイ)になれと? 仲間を裏切れというのか? 冗談じゃない。
ダニーは、雨の降る真夜中に情報屋の一人から呼び出される。ヘロインを手に入れてくれと。ダニーは麻薬を与えることで情報屋をコントロールしていた。真夜中なので宛のないダニーは道端のジャンキーを殴って無理やりヘロインを奪って情報屋に与える。麻薬課の刑事なのに。
●腐りきった麻薬課の刑事たち
自分のやっていることに嫌気が差したダニーはカパリーノのもとを何度も訪れる。警官になりたいと思った時の気持ちが蘇ったという。朝まで声が涸れるまで自分の罪悪感をぶちまける。まるで懺悔のように。そして、ダニーは汚職捜査への協力を決める。
ダニーはまず、CIUで働いた11年間にやった汚職をカパリーノと連邦検事ペイジに告白する。マフィアを逃がしてやるために75,000ドル(当時は1000万円以上の価値がある)受け取ったなど、豪快な収賄を得意気に話すダニーにペイジは呆れる。ダニーは賄賂に慣れてしまって、倫理観がかなり麻痺している。しかし、この汚職を不問にすることで、ペイジたちはダニーの弱みを握った。もうダニーは逃げられない。
「でも、ひとつだけ言っておく、俺は絶対に俺の仲間は売らない!」
ダニーは条件を出す。
「俺たちは女とセックスするが、仲間とは生死を共にしているんだ」
ペイジはダニーに警告する。
「だが、偽証はするな。自分や仲間を守るために」
ダニーは自分と仲間を守るため、代わりに他の刑事を売る仕事をすることになった。隠しマイクと無線の発信機を体につけて、今までつきあっていたヤクザたちに会いに行く。彼らが金で何かを要求する現場を録音するのだ。
録音テープは増えていくが、セルピコと違ってダニーは揺れ続ける。法を守ろうとする検察側と、仲間を守ろうとする刑事とマフィアの間に挟まれて。
ダニーは何度かネズミだと怪しまれ、殺されそうになるが、助けてくれたのはいとこのニックだった。彼はマフィアの一員だ。この映画はマフィアも刑事も検察側もイタリア系ばかりだ。ニックは、ダニーのことを「ブラック・シープ(黒い羊)」と呼ぶ。それは普通、一族のなかで1人だけ出来の悪い者を指すが、この場合、逆で、ヤクザばかりの一族で、1人だけ警官になったことを意味している。
ニックは「ダニーはグッド・ピープルから愛されてる」と言って、ダニーをかばう。グッド・ピープルとかグッド・ガイズという言葉がこの映画には何度も出てくるが「善い人々」ではなく、マフィアにとってマフィアの仲間を意味する。善悪がひっくり返っている。でも、ダニーは今までそれが当然だと思っていた。
●正義と仁義の間で
刑事たちはダニーを疑い始めるが、「市警でいちばんの善人」と呼ばれる刑事ジーノだけは「もし、ダニーがネズミなら、俺のお袋だってネズミさ」とかばってくれる。ジーノも賄賂をもらっているが。
彼ら汚職警官には独特の倫理観がある。「法律は街(ストリート)を知らない」というセリフが出てくるが、汚職警官たちは法律よりも「街の掟」に従っている。それは貧しい移民の男たちによって作られたルールだ。法が正義なら、街の掟は仁義と言い換えてもいい。法を破るのが当たり前の男たちも、仁義だけは守るしかない。仁義を相互に守りあうことで自分たちの身を守るという関係が成り立っている。その街の掟のなかで、警官たちは犯罪をコントロールしてきた。犯罪を一掃することは不可能だし、潰そうとすると闇世界から排除されてしまって、内側が見えない。だから、闇世界の内部に入って、暴走しないように見張るわけだ。マフィアから賄賂を受け取ることで彼らの内情も耳に入って来る。体を張ってるのだから多少小遣いは稼ぐが。
法律的にダニーは英雄だが、仁義の世界では悪党になる。『12人の怒れる男』(57年)で容疑者に対する陪審の判断を観客のそれと一緒に揺り動かしたシドニー・ルメット監督は、ここでも観客の善悪基準を揺さぶり続ける。
検察はジーノの収賄の現場を押さえ、ダニーのようにネズミになれと脅す。ジーノは仲間を売らず拳銃で自殺した。これで心折れたダニーはついにCIUの仲間たちに自分がネズミだと告白してしまう。
「知ってたよ」
みんな怒りもせず、静かに微笑んで、優しくダニーを慰める。
「気にするな」
「君たちのことは絶対に売らないと約束した」
ダニーは泣きながら訴える。
「わかった。お前を信じてる」
そう言ってダニーの肩を抱くCIUの男たち。
「ダニー、何か俺たちにできることはないか」
「自殺はするな。遺族に年金が出ないぞ」
自分たちを売ろうとしている裏切り者を気遣う仲間たち。このシーンは何度見ても胸に迫る。観客はダニーと同じように、何が正しいのかわからなくなる。
いっぽう、検察側のエリートたちは正義のはずなのに、最初は、人間味のない、官僚そのものに見える。それでもカパリーノとペイジはダニーの倫理的な葛藤を理解し始める。2人は、ダニーが隠しマイクをつけてマフィアに会うとき、決して拳銃を携行しないことについて、こう分析する。ダニーは自分のしていることが罰せられるべきだとと思っているから、バレて殺される時、自分を守らないことにしたんだ、と。
セルピコは正義感から、ダニーは罪悪感から、警察の汚職を暴いていく。ダニーが命をかけていることを知って、カペリーノとペイジもダニーと同志愛で結ばれていく。3人は互いを死んでも守る仁義に結ばれた仲間になる。ダニーはこれで刑事側にも検察側にも「仲間」がいる状態になってしまって、ますます引き裂かれていく。
ところが新聞がダニーについてすっぱ抜いてしまった。マフィアによる暗殺から守るため、ダニーはFBIの保護監視下に入る。いとこのニックは、ダニーの責任を問われて、殺されてゴミ缶の中に捨てられていた。ゴミ収集職員がその死体を発見するあたりは『グッドフェローズ』(90年)によく似ている。スコセッシが参考にしたのだろう。
ここで連邦検察官サンティマッシーノ(ボブ・バラバンが蝶ネクタイで実にいやらしい官僚を演じている)と地方検事補ポリートが出てきて、ダニーを追い詰める。「フレンチ・コネクション」で儲けた警官を探せというのだ。映画『フレンチ・コネクション』(71年)で描かれたように、インドシナのヘロインがフランスを通じてニューヨークに入るルートは警察によって壊滅した。しかし、その時に警察が押収した20ポンドものヘロインが消えた。パクったのはCIUの麻薬捜査官以外にいない。ついにダニーは自分がネズミと知っても守ってくれた仲間たちを売らされる羽目になる。
CIUの1人は追いつめられてまた自殺する。しかしリーダーのガス・レヴィー(ジェリー・オーバック)は大胆にも自分から検事局に出向き、「どうせなら俺を暴行で起訴しろ」と言って検事補ポリートの股間を蹴りあげる。このときは、汚職警官オーバックは仲間のために義憤に燃えるヒーローで、検事が卑怯な悪党に見える。
「仲間だけは守る」という最後の約束まで破らされたダニーにさらにとどめが刺される。検察側が今度はダニーを偽証罪で起訴しようとし始めたのだ。彼は裁判で「自分に収賄の経験はない」と答えた。収賄の事実を不問にするという条件で証人になったのだから当たり前だ。しかし違法は違法だ。
「命を捨て、仲間を捨てて証言してくれたダニーを裏切ったら、誰も検察に協力しなくなりますよ!」カパリーノとペイジは検察の中で戦う。ダニーをよく知るヴィンセンテ検事補も「もしダニーを起訴したら、私は検察を辞める!」と宣言する。
ここでは法の側の男たちも、法や正義よりも、仁義と友情を貫こうとする。法の番人である検事が選んだのは仁義だった。彼はダニーを起訴しなかった。
150人以上の汚職警官の起訴を成し遂げたダニーは、世間にとってヒーローになった。警察官を引退し、警察学校で内部調査の技術について講義する。生徒のひとりが軽蔑を込めて「あなたに教わることは何もありません」と言い捨てて退席する。これが正義と仁義の板挟みで死ぬほど苦しんだことへの代償か。160分に及ぶ『プリンス・オブ・シティ』は苦く苦く幕を閉じる。
このような苦い映画を観る意味はなんだろう。世の中にルールはひとつじゃない。社会、友達、職場、家庭、恋愛、それぞれの人間関係ごとに違うルールがある。時にそれは互いに矛盾する。正義だけで一点突破できるのはセルピコだけだ。
2012年、亡くなったシドニー・ルメット監督を追悼して、ニューヨークのリンカーン・センターで『プリンス・オブ・シティ』の上映が行われた。ステージに立ったのは、これが唯一の代表作となったトリート・ウィリアムズと、ダニーのモデル、ロバート・ルーシだった。ルーシは引退後、警察小説作家として暮らしているが、『プリンス・オブ・シティ』を最初から最後まで通して鑑賞するのは、その日が初めてだったという。30年も直視できないほど、彼にとっては辛い体験だったのだ。
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