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ひとつになれない世界に、愛し合える場所はあるか? 【次に観るならこの映画】2月5日編

 毎週土曜日にオススメ映画をレビュー。今週は3本ご紹介します。

①巨匠スティーブン・スピルバーグ監督が、伝説のミュージカルを映画化した「ウエスト・サイド・ストーリー」(2月11日から映画館で公開)

②養子としてアメリカにやってきた韓国生まれの青年が、移民政策の法律の隙間に突き落とされ、家族と引き離されそうになりながらも懸命に生きる姿を描いたヒューマンドラマ「ブルー・バイユー」(2月11日から映画館で公開)

③世界的映画監督ジャンフランコ・ロージが3年以上の月日をかけ、イラク、クルディスタン、シリア、レバノンの国境地帯で撮影したドキュメンタリー「国境の夜想曲」(2月11日から映画館で公開)

 劇場へ足を運ぶ際は、体調管理・感染予防を万全にしたうえでご鑑賞ください!

「ウエスト・サイド・ストーリー」(2月11日から映画館で公開)

◇スピルバーグ初のミュージカルは、達人のメソッドで古典の精神を伝える(文:映画評論家&ライター 尾崎一男)

 「レディ・プレイヤー1」(18)から約3年ぶりとなるスティーブン・スピルバーグの新作は、「オールウェイズ」(89)「宇宙戦争」(05)に連なるリメイク企画。しかもオリジンが偉大、かつウルトラメジャーときた。

 当人は1957年に発表された、ブロードウェイ舞台の再構築だと言うが、1961年の映画版を意識したレイアウトが随所に見られ、文化にタイトルを刻んだそのマスターピース「ウエスト・サイド物語」に慎ましくも畏敬の念を示している。

 自分たちの生活圏をめぐってプエルトリコ系住民とヨーロッパ移民の子孫が反目し、シャークスとジェッツを名乗る2派のストリートギャングが争う渦中で、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」をベースにしたロマンスを歌う本作。この周知されたプロットとミュージカルナンバーを踏まえながら、ダンスパートにさらなる動的演出をほどこし、映画としての濃度を高めているのがスピルバーグ流だ。そもそも舞台史・映画史に燦たり輝く前作と比較される、そんなリスクを背負えるのも氏の格あればこそだろう。

 だが何にも増して最たるスピルバーグらしさは、近作に顕著な社会への言及性にある。異なる民族的背景を持つ者の対立感情をより明白に示し、分断世界への語気を強め、もとよりあったテーマを今日のものへと昇華させている。それは1950年代のマンハッタンをリアルに再現し、シャークスのメンバーにプエルトリコ系の俳優をキャスティングした、設定に忠実なアプローチからもうかがえる。

 また監督は旧コンテンツを現代に適合させるいっぽう、ヴィンテージなミュージカルスタイルの再生を果たし、高揚するような楽しさとジャンルへの愛を深々と感じさせてくれる。歌とドラマがシームレスに展開する、今のハイテンポな歌劇に慣れた目に、その悠然としたさまは風雅に映るだろう。かつては革新者としてハリウッドのエンターテインメントを牽引してきた監督が、正統なテーマに向かい古典の語り部となる。なにより半世紀近くに及ぶ監督キャリアにおいて、念願だった初のミュージカルだ。これほど理想的な到達点は他にないのかもしれない。

 いったいなぜ今「ウエスト・サイド物語」なのか——? その疑問に「ウエスト・サイド・ストーリー」は、良質な形で納得のいく回答を与えてくれる。クラシックの精神を自前の達人的メソッドで伝えようとしたスピルバーグの取り組みは、間違いなく功を奏したといえるだろう。


「ブルー・バイユー」(2月11日から映画館で公開)

◇アメリカの移民法に引き裂かれる韓国系移民と家族の物語を、小さな名優が支える!(文:映画ジャーナリスト 若林ゆり)

 アメリカは多くの移民たちにとって、けっして夢の国なんかじゃない。移民問題がいま、さまざまな波紋を呼んでいる。韓国系アメリカ人のジャスティン・チョンが製作・脚本・監督・主演作「ブルー・バイユー」で描くのは、アメリカの非情な移民政策によって引き裂かれていく、ある家族の物語。

 韓国で生まれ、3歳のときに養子としてアメリカ南部に引き取られたアントニオ(チョン)。看護士のキャシー(アリシア・ディキャンベル)と結婚し、幼い連れ子のジェシーと3人で貧しいながらも幸せな家庭を築いている。キャシーが妊娠し、タトゥーアーティストとしての収入では不十分だと思った彼は職を探すが、窃盗の前科もあってうまくいかない。そんなとき、ジェシーの父親である警官のデニーとの一悶着で逮捕されたアントニオは、30数年前の養子縁組書類に不備があったと告げられ、国外追放命令を受けてしまう。

 '80年代~'90年代に韓国から養子として渡米した多くの移民たちが、似たような憂き目に遭っているという。それを知ったチョンは彼らの悲劇に思いを馳せ、ごくパーソナルな、感情に訴えるやり方でドラマを構築した。16mmフィルムで撮影されたホームビデオのような映像に映し出されるのは、アイデンティティに悩みながら懸命に生きるアジア系移民の肖像。妻と義理の娘を心から愛し、このふたりからも深く愛され、なんとかこの幸せを守りたいと切望する男の叫びだ。

 不器用な生き方しかできないアントニオのように、映画もときに不器用さを露呈する。デニーのキャラはブレすぎて戸惑いを呼び、その相棒はあまりにステレオタイプ。アントニオの浅はかすぎる行動にも「?」が浮かんでしまう。度々登場する、青い水の中に浮かぶ幻想的な回想と独白のシーンも、癌を患ったベトナム移民女性との交流も、過剰な自意識とメロドラマ性を感じさせるだろう。でも一方で、この不器用ささえも「愛しい」と思わされてしまった。

 それは、生まれてくる赤ん坊にアントニオの愛情を取られてしまうのでは、と恐れるジェシーと、父親としてのアントニオとが一緒に過ごす時間があまりに美しかったからだ。共感できるかどうかは、キャストに依るところが大きいとつくづく思う。ディキャンベルの存在と演技がアントニオの舌っ足らずな人物像に絶対の説得力を与えている(彼女の歌う「ブルー・バイユー」は心に響く)し、なんといってもけなげで、ディキャンベルの娘にしか見えないシドニー・コウォルスケ! 彼女が見せるラストの演技に涙を流すなというのは無理な話。小さな名優が、映画の「訴える力」を支えている。


「国境の夜想曲」(2月11日から映画館で公開)

◇紛争と紛争の切れ目に存在する“マジックアワー”を、美しい映像で描き出す(文:映画評論家 矢崎由紀子)

 冒頭を飾るのは、兵士たちのランニング風景。一小隊が通り過ぎたかと思いきや、しばしの静寂を破って次の小隊が現れる。それが何度も繰り返される光景は、戦争や侵攻、占領やテロといった紛争が、一時の小康状態をはさんで断続的に勃発している中東の現代史を象徴的に物語っているようだ。

 イラク、シリア、レバノン、クルディスタンの国境地帯を、3年以上の歳月をかけ、ひとりで旅しながらこの映画を撮影したジャンフランコ・ロージ監督は、「生死を隔てている境界線に沿って生きる人々の日常をしっかり伝えようと思った」と創作意図を語っている。

 登場する市井の人々は年齢も宗教も様々だが、弾圧や迫害によって何らかの傷を負っている様が見てとれる。とくに、ISIS(イスラム国)が行った残虐な行為について語る子どもたちの生々しい証言はショッキングだ。さらに、幼くして家長の責任を負った少年の姿も印象に残る。年齢は、おそらく10代前半。だが、世の中の苦しみと悲しみをみつめ続けてきたようなまなざしは、老人と言っていいほど大人びている。

 母親と年下の子供たちと暮らす彼は、早朝から漁や狩りに出て家族の食いぶちを稼ぎ、帰宅後は疲れ果ててソファで眠る。まさに生きるため、いや、生き残るために繰り返される日々の営みを、ロージ監督は、フェルメールの絵画を思わせる光の美しい映像で描き出す。それは、少年たちの営みがどれほどしんどそうに見えたとしても、紛争のない日常を送ることができている今は、「美しい時間帯」であると言えるからだろう。

 日の出や日没前後の空が最も美しく見えるわずかな時間帯を撮影用語でマジックアワーと呼ぶが、ロージ監督がこの映画で切り取ったのは、まさしく紛争と紛争の切れ目に存在するマジックアワーだ。それがどれほど貴重で、どれほど失われやすいものかを、この映画はしみじみ感じさせる。


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