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(15)〝デジ力〟の前に〝読書の筋力〟―「よく読む子」に育つ5歳頃からの本好き大作戦 ~本との縁結び編~


 さて、話は少し戻りますが、改めて、子ども時代に読書の筋力を鍛えてほしい理由…これはもういくつもありますが、まず第一は「体で覚える」ことが大きな財産になるから。情緒面うんぬん以前の問題かもしれません。
 
 前述しましたが、読書とは、ある面では自転車のように体で覚えるものだと私は思います。

 具体的には体に染み付いた「慣れや瞬発力」
 長い文章を読む時ほど、これが読む力のベースになります。
 

〈本くらい「誰でも読める、読まないのは努力不足」という誤解〉

 
 例えを変えてみますね。

 子ども時代にピアノを習っていた人は、その後やめてしまってもある程度は楽譜を読めたり弾けたりするでしょうし、少年野球やサッカーをやっていた人は、ブランクがあってもボールが目の前にあれば体が反応するでしょう。
 
 大人になってから始めた人とは体に染みた基礎が全然違います
 そう、全然違うんです。
 
 「わかるけど、読書とは比べられないのでは?」という人もいると思います。
  スポーツや音楽は、子ども時代からやっていた人にはかなわない…。
 でも、読書に関してそう言われることはほとんどない。

 ―その理由はなんでしょう?
 なぜ「読書には訓練が必要」「子ども時代に体得したほうがいい」と言われることはほぼないのでしょうか?
 
 それは、日本人なら大抵は日本語の文章が読めるので、音楽やスポーツのように「経験がないからうまくできない」「子ども時代に習得していないから本は好きじゃない」と言っても周囲の理解が得づらいから…ではないでしょうか。
 「いやいや、読もうと思えば読めるでしょう」…と言われてしまうのです。
 

〈「あまり読まないので…」と少し恥ずかしそうに話す人がいる理由〉


 以前から気になっていたのですが、テレビなどで読書の特集をする際、街頭インタビューなどで「あなたは月に何冊くらい本を読みますか?」と尋ねると、「私、あまり読まないので…」と答える人の大抵は、少し恥ずかしそうな、後ろめたいような顔をしているのです(私がそう感じているだけだったらごめんなさい)。
 
 これ、実は私の周辺でもけっこうあることで、友人やママ友さんとたまたま本の話をする時、「私はあんまり本を読まないので…」と神妙な顔で答える人が多くて、ずっと気になっていたんです。
 
 でも、思います。それは、努力不足とは一概に言えないです
 私が子どもの頃に音楽を習っていなくて今でも楽譜を読めないように、その方達も訓練の機会を逃したから「長い文章を読む」のが苦手なのではないでしょうか? ―と思います。
 
 読めるけど、時間がかかるんだと思います。
 読めるけど、なんとなく疲れるんだと思います。

  大人になってから「話題の小説をたまたま読んだらおもしろくて徹夜した」なんていう人もいるでしょう。
 ただ、だからといって急に「読書が習慣になった」「当たり前の娯楽として生活に取り入れるようになった」という人は少ないと思うのです。
 なぜ「そういう流れ」にはなりづらいのでしょうか?
 このことについてもう少し考えてみます。
 
 

〈読書の筋力とは、音楽でいうところのソルフェージュ〉

 
 大人になって「忙しくても本をスラスラ読む人」と、「そうしたくてもなかなかできない人」の決定的な違い・・・それは「文章を読んで素早く情報を整理・イメージする脳の習慣」が確立されているかどうかではないでしょうか。
 
 音楽でいうソルフェージュ(楽譜を見てすぐ弾いたり歌ったりできる音楽の基礎)に近いのではと思います。
 
 だから子ども時代に「一冊の物語を読破する訓練」に大多数の子が(楽しみながら)取り組むことができれば、本好き人間の裾野は格段に広がると思うのです。
 
 それなのにそういう機会がないまま成長し、中高生で授業の一環として「読書感想文を書いて」と強制的に本を読まされるとしたら・・・。
 これでは本好きが増えるどころか減るのではないかと危惧します(読書感想文については追々またお話したいと思います)。
 
 私は、本好きの裾野が広がることを願っています。
 そしてそれには、たくさんの子ども達が本好きになることが一番です。

 絵本が好きな子が児童書に移行し、児童書から小説に移行し、大人になっても日常的に本を楽しむ人が増える…という流れが、世の中から本好きがいなくならないこと、10年後、20年後に書店がなくならないことの、一番の方法だと思います。
(なぜ絵本から児童書に移行しづらいのか、ゲームやネット以外の理由については後述します)。
 
 

〈読書慣れしている人は「見当と緩急」で長編を読む〉

 
 ここでちょっと、「文章を読んで素早く情報を整理・イメージする脳の習慣」がある人は、どういう風に本を読むのかについてお話します。
(もしかしたら私だけの読み方かもしれないので、万人に当てはまらなかったらごめんなさい)
 
 例えば、分厚い…500ページくらいある小説を読んでいると、時折「このくだり、本筋と関係あるのかな?」というような箇所が出てきます。
 
 そういう時、読み慣れていない人は「一行一行真剣に向き合って意味を考えて」みたり、また少し理解の及ばない箇所や表現が出てくると「あ~わからない…」と疲れてページをめくる手が止まってしまい、「先を読みたい」という勢い自体が失せてしまったり…ということがあるものです。
 
 そういう時、読み慣れている人は「とりあえず表面上の文章だけをさらりと読み流し、先に進んでみる」ということをします。
 
 「きっとこれも後で繋がるのだろう…」とか、「直接関係ないけど著者のこだわりの部分かもしれない」などとある程度の勘を働かせ、想像力や見通しをもって読み進めることができるのです
 反対に「ん? ここは重要そうだな」と感じると、じっくり読み込んだりもします。

 また、一冊の小説として完成されている以上、「さっきの親子のエピソードはきっと後でまた出てくるだろう」と予想を働かせて読み進めることができますが、慣れていない人は「あれ、この人達どうなるの…?」とザワザワして落ち着かなかったり、気持ちを安定させて読むのが難しいことがあるようです(友人への聞き取りから、そうなんだ…と感じました)。
 
 そうして最後まで読み切り、全体像の記憶が新しいうちに、「序盤のあの人の言動はこのためだったんだ」(いわゆる伏線)とか、
「場面転換が多かったし、登場人物も多くて名前が覚えづらかったけど、終わってみるとこういう話だったんだ」と思い、確認したい場面だけ読み返すこともできます。
 
 そういうふうに読書慣れした人は、逆に「あの場面はあまり必要なかったのでは」とか、「あの件は想像にお任せということか…」とか、「違う作家で似たような話があったな・・・」というように自分なりの解釈ができるようになり、物語に対する「咀嚼」をします。
 レビューなどを書ける人はこの能力に長けていますよね。
 
 これが繰り返し読む(訓練する)ことによって培われる読書の筋力…と私は考えています。 
 脳科学のことはわかりませんが、たぶん脳のどこかの部分が鍛えられているのでしょう。
 
 こうやって「読み慣れている人」は読めば読むほど読書脳が鍛えられ、読むスピードと読解力がどんどん上がる…という好循環が生まれます。
 だから、仕事で忙しいはずなのに「年間〇百冊読む」という人がいるのだと思います。

 反面、読書慣れしていない人は、「本の世界ならではの展開」に慣れていませんから、ふだん使わない脳を使うことになり、疲れるのだと思います。
 
 そうなってしまうと一冊一冊が重く感じ、大人として忙しい毎日を送っている日々に「気軽に読書」を取り込めなくなってしまうのではないでしょうか…。
 
 実は私の友人に何人か「本を読みたいんだけど、時間がかかるし、読んでいて疲れてしまう」という人がいて、話しているうちにこれらのことに気づいたのでした。
 
つづきます。
 
 
 
 
 
 
 

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