見出し画像

【取材旅行】山田寺跡

今回の旅のテーマの一つは「蘇我氏」。
特にその邸宅や関連する場所を改めて確認したいと思ったのでした。
それぞれの距離感や、その立地などを体感してみたかった…のですが、
犬も歩けない程の酷暑の折、徒歩は諦めて車での移動となりました。

山田のそばの道標

先ほどの飛鳥資料館を出て500mも離れていない位置に建っていた山田寺。
蘇我倉山田石川麻呂が建立し、完成させたのは孫の持統天皇…と伝わります。

磐余道の石標

大通り(124号・桜井明日香吉野線)は磐余道なのですね。
磐余道は阿倍山田道とも呼ばれ、海石榴市と飛鳥を結びます。
山田寺はその飛鳥の入口にあたる位置にあたるようです(wiki 山田寺より)。

ここから資料館を背に右折して行きます。



山田寺から大通りを見下ろす眺め

振り返ると体感よりも高低差がありました。
磐余道(主要道路)沿いの少し小高い位置に山田寺は建っていたのですね。
さすがは蘇我氏。良い立地に土地を持っていたのだとわかります。

山田寺跡

広大な跡地は緑に覆われています。
ここに飛鳥資料館で見た回廊が巡り、大きな仏像を安置した金堂や、豪華な屋根瓦を葺いた伽藍が並んでいたのだ…としばし空想。

山田寺の伽藍配置は四天王寺式などとも異なる「山田寺式伽藍」と呼ばれるそうです。

(ところで高校日本史で伽藍配置って暗記させれらませんでしたか?
 当時は苦しみましたが、現在まさかの役に立ってます…!)

山田寺跡案内図

蘇我倉山田石川麻呂は謀反の罪で山田寺を包囲された…と日本書紀には記されています。

山田寺は、舒明天皇13年(641年)に造営を誓願し、平地作業が始まり、
皇極天皇2年(643年)に金堂の建立が開始、
大化4年(648年)に僧侶がこの寺に入ったと、『上宮聖徳法王帝説』裏書に記されているそうです。(wikiより)

石川麻呂の謀反(冤罪)が大化5年(649年)です。
石川麻呂は山田寺の完成を見ずしてこの地で自害しています。

石川麻呂が自宅ではなくこの山田寺に包囲されたことから、私は石川麻呂の邸宅も隣接していたのでは?と思います。

崇峻天皇など追い詰められて神社に逃げ込む…という例もありますが、当時の寺は神社のような神域ではなかったと思います。
政治的な立場や自らの富を具現化したものではなかったでしょうか?
石川麻呂が信心深く、仏のそばで…という想像も出来ますが、仏像の鋳造がなされるのが天武7年(678年)なのですよね。
まずは箱物(カタチ)から入るスタイルだったわけです。

次代が下りますが、大津皇子や長屋王も自宅で捕縛(?)されているようです。

自宅の隣に広がる土地を開拓して寺にした…
そしてその祖父の遺志を継いで持統天皇が、祖父を弔うためにも祖父の邸も寺の敷地として山田寺を完成させてような気がするのです。
(あくまでも妄想です)
が、7世紀後半の木簡も出土していることから、石川麻呂(もしくはその一族の誰か)の邸宅跡だという考えは有力視されているようです。

その完成が天武14年(685年)で、丈六仏開眼があり、天武天皇も行幸された記述が日本書紀に見られます。

その丈六仏こそあの仏頭のみ残る仏様だとされています。

明日香資料館 復元仏頭

『扶桑略記』には治安3年(1023年)に藤原道長が訪れ、
「山田寺の堂塔を覧るに堂中奇偉荘厳を以て言語云黙し心眼及ばず。
御馬一疋権大僧都都扶公に給ふ。」と、堂内の荘厳さに感動したとの逸話があります。

平安時代には豪奢な寺院が数多く建てられています。それでも道長が感動したというのですから、どれほどの見事さだったのでしょうか。
私たちがよく思うように「この時代この技術が!?」のような驚きもあったかもしれません。
平安時代迄には改修も行われて華やかさを増していた可能性もなきにしも…ではありますね。
ですがこの仏像を目にしただけでもきっと驚きますよね。
もし息子・頼通が同行していたのならば、平等院の創建にインスパイアされていたかもしれませんね。
(この年に頼通は道長に勘当されていた時期があるようなので、都で政務を執りながらお留守番の可能性が高いのかも?調べきれなかったので後日余裕があれば調べてみます)

このように豪奢であった山田寺ですが、発掘調査によると道長来訪の後に土砂崩れで一部が埋没したそうです。

更に文治3年(1187年)に興福寺の僧兵が、講堂本尊の薬師三尊像を強奪し、焼き討ちをしたというのです。
この時に金堂・塔・講堂が焼失し、山田寺は荒廃していったと考えられています。

そしてこの薬師三尊像は興福寺東金堂の本尊に据えられたそうですが、応永18年(1411年)に火災に遭います。そして頭部のみになったのがあの丈六仏なのです。
(両脇侍の日光菩薩・月光菩薩は興福寺東金堂に健在。現在こちらも国宝。)

その後中世には再建され、興福寺の末寺となった時期もあったようですが、
明治の廃仏毀釈で廃寺に…(本当に廃仏毀釈は最悪)。
現在は御覧いただいたように国定公園になっています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?