![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159751339/rectangle_large_type_2_7e20b0f401a57bf03f6841937383a88b.jpeg?width=1200)
【取材旅行】談山神社
ついに来た・・・!
以前からずっと来たかった多武峰…中大兄皇子と鎌足が蘇我打倒の密談を交わしたとされる場所です。
明日香からさほど遠くなく、バスも出てますし、観光バスも来るほどですが、なかなか訪れることが出来ずにいました。(ペーパードライバーの我が身の呪わしさよ!)
![](https://assets.st-note.com/img/1730170723-rdtqx61F7lK4fhkZvNUjS9Wo.jpg?width=1200)
ずっと「暑い暑い」を連呼していましたが、ここに来て突然の雨模様。
鳥居をくぐった途端にゴロゴロと雷鳴が・・・!
ここ談山神社の御祭神は藤原鎌足公。
その出身ともされる鹿島神社の祭神は武甕槌大神(タケミカヅチの神)ですね。そう、武甕槌大神は雷の神…!
う~ん、今回の小説では鎌足父子をけっこうな悪者にしてしまっているので、ここでバチが当たるのではとちょっとヒヤヒヤ(笑)。
雷鳴は一度きりで、拝殿参拝(陳謝とお願い奏上)後には小雨になってきたのでお許しをいただけた…かな?(とまた勝手に解釈)
(余談ながら…藤原氏はアマノコヤネ神を祖先としていますが個人的には眉唾なのです。
同じ意見の学者さんも多いですよね。以下一例↓(コトバンクより転載)
「天児屋命…
天岩戸(あめのいわと)神話のなかに登場する神。中臣(なかとみ)氏の祖神。天岩戸にこもった天照大神(あまてらすおおみかみ)を引き出すために、神々が神事を行った際、祝詞(のりと)を奏している(『古事記』)。しかし、天岩戸神話の基盤に鎮魂祭があるとすれば、本来この神事をつかさどっていたのは猿女君(さるめのきみ)とすべきである。そこへこの神が登場したり、さらには神事の主宰者のようになっているのは(『日本書紀』一書)、中臣氏が藤原氏になり、その藤原氏の政治的権力が増大するにつれて、この神が割り込んできたとみるべきである。春日(かすが)大社(奈良市)、枚岡(ひらおか)神社(東大阪市)などに祀(まつ)られている。[守屋俊彦]」)
![](https://assets.st-note.com/img/1730171225-lZ3DPcmEhVdSi8R6fIn2q0TF.jpg?width=1200)
階段を更に進むと右手に見えて来るのが 楼門と東西透廊です。更に奥に拝殿があります。
この透廊下が見事ですよね。
朱塗りの色も鮮やかで未だ青々とする紅葉との対比が美しいです。
![](https://assets.st-note.com/img/1730179570-wxFarofhMD3Ve89AjYziuyQP.jpg?width=1200)
談山神社には15もの重要文化財が建ちます。
藤原伊尹が立願した権殿の再建(室町時代)もあります。
平安時代にもこの談山神社が藤原氏に貴ばれていたことが偲ばれますね。
(そして伊尹の名に平安時代へのときめきが…!⦅万葉の時代に傾倒するまでは平安時代に染まっていた身としては…。どきどき⦆)
![](https://assets.st-note.com/img/1730180998-fhXQH0MdI1TCLoiqgvGURjkF.jpg?width=1200)
元々はこの多武峰に鎌足の長男・定恵が十三重塔を建立したことが談山神社の始まりだとされています。
定恵は唐に仏法の修行に出されていましたが、白鳳7年(678年)に帰国し、多武峰の山頂に鎌足公の遺骨の一部を改葬したと伝わります。
当時は講堂も建てられ「妙楽寺」という寺院であったそうです。
その後、大宝元年(701年)に方三丈の神殿を不比等が神殿を建立し、父の像を安置したと伝わります。
飛鳥時代にはまだ神仏は混合する前でしたので、墓所としての妙楽寺、祈りの場としての神の社という形態だったのかと想像します。
前方後円墳の寺社バージョン…のようなイメージです。
また、定恵は仏教を、不比等は中臣の流れで神道を信仰していたため…とも考えられますね。
鎌足は摂津国の安威山(大阪府高槻市)から分骨されました。
現在は阿武山古墳だと推定されています(異説あり)。
![](https://assets.st-note.com/img/1730208594-fHVmlX9toveTEBWqQ3Uuxs6p.jpg?width=1200)
ただ、定恵に関しては白鳳16年(天智天皇4年)(665年)12月に亡くなったという説があります。
また実父は孝徳天皇であった…という話もあり、所謂「伝説の人」のようで実像が掴みにくい人物だと私は思っています。
ところが、この談山神社には「定慧(定恵)」の名をあちこちで目にします。
「本当に実在したんだ」と思えるほどに。
定恵の存在感の希薄さは不比等の功績が強すぎるせいかもしれません。
よく指摘されるように俗名の「真人」も「不比等」に対比して付けられたように感じられます。
定恵の存在は聖徳太子にも似て、何となく漠然としているように感じてならないのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1730209146-nGR2J5tg4Wrk8KNMsUTfEFoi.jpg?width=1200)
「伝説的」と言えば、中大兄皇子と鎌足の出会いが蹴鞠…という話も後世に作られたという説がありますね。
そしてこの多武峰で蘇我打倒の談合を行った…というこれもまた創作なのでしょうか?
「談山神社」の名は中大兄皇子と鎌足の説話から名付けられたと言います。
今もその会談の地が「談い山」として本殿裏山であったと伝わります。
ただこの神社名になったのは明治二年の廃仏毀釈の折で、それまでは「妙楽寺」でした。
そして妙楽寺は藤原の祖である鎌足公を祀るものの、藤原氏の氏寺である興福寺に何度も焼き討ちにされています。
…まぁ興福寺の僧兵の猛々しさは他の寺社にも及んでいますので、特別な因縁があるとも限らないとは思うのですが…。妙楽寺は同じ藤原氏関連の春日大社ともねんごろではなかったという話もあります。
「我こそが藤原の…!」という争いであったのでしょうか?
![](https://assets.st-note.com/img/1730210677-j7CEq9ZL0VyBKHSNe3cUbP4n.jpg?width=1200)
境内は広く、「神社」というよりはやはり「寺院」のしつらえに感じます。
山の上…というのがまた修験道的といいますか、外界と隔てた修行の場のイメージです。
ただ、今の私たちにはなかなかすんなりと想像できない神仏習合の時代の寺院だったのだな、と思わせるところも沢山あります。
例えば境内内末社の「総社」。
「延長四年(九二六)の勧請で、天神地祇・八百万神をまつり日本最古の総社といわれている」そうです。
「現在の本殿は、寛文八年(一六六八)造替の談山神社本殿を、寛保二年(一七四二)に移築したものである」と公式HPにありました。
明治の廃仏毀釈以降に合祀されて総社的なものが増えた…と私は思っていたのですが、江戸初期からあったのですね。
![](https://assets.st-note.com/img/1730352082-ec4u73WJmxvANOYlHTt6dBVz.jpg?width=1200)
高低差もありますが、お散歩を楽しむ感覚で境内を巡れますが、
神廟拝所、東西透廊と拝殿など内部に入れる建物もありますので、じっくり見てまわると1~2時間はかかりますね。
![](https://assets.st-note.com/img/1730352473-NxcrM3qwj4f0PFZVgW5IpmHA.jpg?width=1200)
江戸時代に建てられた重文の建物をじっくり見られる…建物好きとしても至福のひとときでした。
この拝殿からは本殿が参拝出来る構造です。
鎌足公にもういちど合掌。
![](https://assets.st-note.com/img/1730352799-bux4z0iqFtWmCQY2fyATRSeZ.jpg?width=1200)
鎌足公以外の藤原(中臣)ファミリーも境内社に祀られています。
こちらの東殿は「恋神社」とも呼ばれ、御祭神は、鏡女王・定慧和尚・藤原不比等。
鏡女王の名に古代史好きとしては萌えてしまいますね。
(でも定恵・不比等兄弟は鏡王女の実子ではない(とされている)けれど、ご一緒に祀られているのが何となく気になるのですが…。正妻と嫡男と跡継ぎだから良いのかな?)
鏡女王は天智天皇から鎌足に下賜された逸話が有名ですよね。
万葉集には鎌足の求婚の歌に「NO」を突き付ける歌も残っていますが、その後には鎌足を偲ぶかのような歌(異説あり)も詠まれていますので、鎌足サイドで見ると「恋の成就」になるのかな。
こちらの恋神社、参拝方法がHPに記載がありました。
「♥恋神社・祈願のしかた♥
まず、本殿正面から参拝し、時計回りに回って本殿背後から参拝します。ぐるりと回って正面にもどり、また参拝します。
三度参拝することによって、あなたの祈願が深まるこ とでしょう…」
![](https://assets.st-note.com/img/1730353634-8CZREcnoPNHLWhbl0J1IAT4m.jpg?width=1200)
鏡女王もまた謎の人です。万葉集や日本書紀に名があるので実在は間違いなさそうなのですが、出自からして諸説あります。
近江の鏡王の娘で額田王の姉とされることが、歴史小説や漫画などでも多いですね。
近江といえば息長氏。
近江といえば大津宮。
このあたりの繋がりも気になりますよね。
ただ、鏡女王は鎌足正妻にはなっていない説、鏡女王は皇族であるという説もあります。(皇族であれば鎌足は娶ることができないのですけど)
鏡女王の墓所は桜井市の忍坂墳墓だとされ、談山神社の管理となっているそうです。
前述しました鎌足の改葬された墓所はこの写真の道を上がって山頂です。「語破裂山」と呼ばれています。
その途中には中大兄皇子と鎌足が密談をした「談い山」が。
徒歩20分ほどで山頂に着くそうですが、今回は断念。
![](https://assets.st-note.com/img/1730354443-Z4WqBRzyIdDC02iOoGMvlFPk.jpg?width=1200)
本殿そばの授与所には、鎌足公の眼光鋭い交通安全守りなどキャラ濃いめのお守りが並んでいます。
迷ったのですが、こちらの「蹴鞠ストラップ」を。
…ん~、紙に「鹿皮」って書いてある札がついてますが、それを外すと謎の肉まんストラップにしかみえない!
「談山神社」ってプレートがついていたら良かったな・・・。ちょっとがっかり。
でも「鎌足公のように良いご縁に預かり、上り詰めるぞ!」というご利益に期待します。
(そもそもこれ、お守りなのかな?ストラップとしか書かれてなかったんですよね…。まぁ、気の持ちよう!ということで)
観光地としても、映えスポットとしても、古代史萌えとしても、建築好きとしても楽しめる…談山神社は常に時流に乗る多様性に富んだ神社さんでした。