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【取材旅行】越智崗上陵
今迄仕事や遊びで奈良に何度も訪れ、数々の古墳に足を運びましたが
私の最大関心のひとつである大田皇女とその祖母斉明天皇のお墓にまだ辿り着いていませんでした。
今回はすぐ近くを車でぐるぐるしていたので、急遽の参拝(と言っても良いのかしら?お墓参りでは仏教的すぎる?)をして参りました。
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見上げると夏空が眩しく、石段を照らすかのようです。
斉明天皇陵まで石段を上ります。Googleマップ情報では220段です。
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石段を上りはじめてすぐ左手に寺院が。
「お邪魔します」と手を合わせに寄ると、奥にはお稲荷さんの社も。
元々は陵墓を守るお寺だったのでしょうか?
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石段の半ばくらい、息が切れ始めた頃に見えてきたのが大田皇女墳墓です。
ありがちでお恥ずかしいのですが、高校生の頃に古文で大伯皇女の歌に触れたことがきっかけで、万葉の世界の扉を開きました。
大学の卒論は大伯皇女と伊勢について。
そんな私にとって大伯皇女のお母様大田皇女のお墓に向かうのは胸が痛いほど熱くなりました。
「ようやく来られました。
どうぞ小説に登場していただくことをお許し下さい…」と手を合わせます。
大田皇女は大伯皇女の弟・大津皇子を産んで少し後に亡くなったとされています。
持統天皇の姉で天武天皇の正妃です。
永らえていれば歴史が変わった…と言われますね。
その孫娘を斉明天皇は愛しく思っていたのか、同じ山に改葬されています。
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更に上ります。石段がとても美しく整備されていて驚くほどです。
有難くもとても歩きやすいもののさすがに疲れてきた頃、いよいよ斉明天皇陵が見えてきました。
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天智天皇六年二月二七日「天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す」とあり、その陵墓がこの崗上古墳だと伝わります。
ですが、斉明天皇は孫の健皇子(天智天皇と越智郎女の子)が亡くなった際に、いつか自分と一緒に埋葬してほしい…と申し付けています。
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陵墓前の宮内庁の案内版には「健王」の文字もみられるのは、上記を踏まえてのことでしょう。
ですが最近の研究では、斉明天皇は4キロほど東の牽牛子塚(けんごしづか)古墳に葬られたという説が有力視されています。
斉明天皇は白村江の戦いの際に九州へと赴いた際に、朝倉宮で亡くなります。
ご遺体は飛鳥に運ばれ埋葬されたと伝わっています。
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もし崗上古墳が斉明天皇陵でなければ、どなたの墳墓なのでしょう?
また大田皇女や健皇子はどこに眠っていることになるのでしょう?
「越智」という地名は大田皇女の母「越智郎女」を彷彿とさせますね。
越智郎女は蘇我倉山田石川麻呂の娘だとの説が有力です(諸説あり)。
蘇我氏の誰かの墳墓なのでしょうか?
土地柄としては葛城氏の勢力下にあるように見受けられますが…。
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宮内庁の考えが変わらない限り、このミステリーに結論は出ないでしょう。
「エビデンス!論拠!証拠!!」と頭をガチガチに悩ますのも良いですが、こちらの美しい古墳を斉明天皇の御陵として手を合わせたいと思いました。今は、まだ。
(作品にご登場いただいております。仮想が過ぎますがご勘如くださいませ、と。)
斉明天皇の最期に触れるお話を書く際には私なりの結論を表してみたいです。
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こちらは天皇陵としては珍しく、墳丘のすぐ周囲を一周出来ます。
地元の方か宮内庁の方か、とてもきれいにしてくださっています。
ただ気になったのは、更に山奥へと伸びる道と「光雲寺」の道標…。
さすがにちょっと度胸がなくて断念。
(余談…
調べてみると、南北朝に創建された越智氏の氏寺だそうです。
越智氏は物部系で伊予の出身。
越智直(おちのあたい)という人物が、白村江の戦いで捕虜になりつつも観音菩薩の霊験により無事帰還することができ、寺を建てたという話が『日本霊異記』にあるそうです。
おや?諸々の符合が…?)