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【取材旅行】飛鳥水落遺跡(石神遺跡)

豊浦寺跡から甘樫丘の駐車場に、丘の東側を歩きながら戻ります。
その途中、少し足を延ばしたところにあるのが「水落遺跡」です。

斉明天皇の時代に中大兄皇子(葛城皇子)が建てた漏刻台の跡とされています。
その漏刻台が先ほどの奈良文化財研究所・飛鳥資料館に実物大で復元がされています。
更にその水の流れを再現した縮尺模型もありました。
排水の様子や、時間を知らせる鐘の音も鳴り…当時の様子がここまで表現できるのかと研究の深さに驚きました。
(写真を撮っておりませんでした!大後悔!)

愛犬と遺跡散歩

その水落遺跡と隣接していたとされるのが、石神遺跡です。

石神遺跡案内板

この地から、飛鳥資料館収蔵の須弥山石や石人像が発掘され
日本書紀に見られる「迎賓館」だと推定されています。

飛鳥資料館庭園の復元された須弥山石

このように庭園に置かれていたのでしょうか?
石人像も須弥山石も噴水タイプのモニュメントですから、庭園に置かれていたに違いありません。
(イメージとしては中世ヨーロッパの庭園の噴水…。周囲にはもっと華やかに周りに装飾もあったのでしょうけれど)

須弥山石の構造説明(飛鳥資料館)

噴水に水時計。
この石神遺跡界隈のテーマは「水」だったのでしょうか。
飛鳥川がそばを流れるので、水の利用はしやすかったのだと思います。

漏刻台も噴水も数学的な計算が必要で、現在でいうならばスーパーコンピューター富岳のような最先端の技術の終結した傑物だったのでしょう。

外国の使節団をもてなしたと考えれれている迎賓館ですので、国力の誇示と共に文明にも秀でていることを見せつけることば重要事項ですよね。

また水という人間がコントロールすることが難しい自然物をコントロールできるという祭祀的なアピールも含んでいたのかもしれません。

水という観点から考えるともう一つ。
この時代には稲作も盛んでしたでしょうから、水分も治世者の権力下に置かれています。
つまりはその治世の盤石さも表現したかったのかもしれません(穿ち過ぎな考察かもしれませんが)。

飛鳥資料館 石人像(実物)

この石人像や須弥山石は1903年に出土し、1981年から奈良文化財研究所を中心に遺跡の本格調査が始まったそうです。
是非とも文化財研究所飛鳥資料館とセットでまわられることをお勧め致します。

(この石人を斉明天皇も天智天皇も見つめたのかと思うと歴史オタクとしてはドキドキしますね…!)


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