【取材旅行】多坐弥志理都比古神社
多坐弥志理都比古神社・通称は「多神社」。
その名の通り「多氏」の祀る神です。
多氏の本拠地とされていて、ご祭神は4柱。
神倭磐余彦尊(神武天皇)
神八井耳命(多氏の祖)
神沼河耳命(綏靖天皇)
姫御神(玉依姫命)
太安万侶
神八井耳命の父・神武天皇、弟が綏靖天皇、祖母が玉依姫命とファミリーが祀られています。
太安万侶は古事記の編纂者で多氏の出身と伝わっています。
見ることはできませんが、拝殿の後ろに春日造りの本殿が4つ並ぶそうです。
記紀神話の序盤には「兄が弟に皇位を譲り、兄は祭祀を行う」という流れが見受けられます。
多氏の祖・神八井耳命はそのケースのはじめで、弟の綏靖天皇に皇位を譲っています。
時代が下ると、蘇我氏の蝦夷の兄・善徳が僧籍に入っていたり、藤原氏も不比等の兄の定恵が僧になるために唐に渡っています。
個人的にこのケースの相似には記紀編纂者の意図を感じるのですが…。
どうなのでしょうね。
境内に一歩足を踏み入れると圧巻だったのが、ずらりと立ち並ぶ石灯篭の列です。
ピシっと真直ぐに間も等間隔に林立する様は、塀のように感じられるほどです。
ドライバー(我が夫君)も「何だこれ!?」と驚きの声を上げ、ぱっと見では灯篭だと気付かなかったそうです。
ところでこういった蝋燭を入れる部分が四角になった灯篭は、背面は蝋燭を入れるように面がなく、残りの三面のうち東側が丸く繰りぬかれ、西側は三日月型になっているものを多く見かけますね。(特に奈良に多いような?)
この「日・月」の信仰は伊勢神宮等の太陽信仰と結びつきがあるのでしょうか?
いつか調べてみたいですね。
余談ながら…伊勢神宮の石灯篭の三角が上下重なって星形を形成する籠目紋が「ダビデの星だ」と日ユ同祖論でよく取り沙汰されますよね。
以前は神宮のそばに並ぶ石灯篭を見て「わぁ」と心を躍らせたものですが、
10年近く前にバスの事故を受けてなくなってしまいました。
ただ、地元民としてはあの灯篭にさほど思いは深くなかったようで「比較的最近のものだからね」とどうでもよさそうですらありました。
ですので、残念ながら籠目紋にもさして思い入れはなさそうです(あくまでも私の身の回りの地元民に聞いた感覚ですが)。
…そのようにリアリストに考えてしまうと、この日・月型も現代的な感覚のものなのでしょうか・・・?
境内は広々としていて、拝殿を正面にまだまだ石灯篭が並びます。
その後ろには写真のような摂社や石碑などもありました。
拝殿の後ろの本殿は見えないのですが、その更に後ろには「神武塚」と呼ばれる円墳があります。
弥生時代の祭祀所とも伝わり、社伝とぴったりですね。
また、境内のすぐそばを流れる飛鳥川の工事の際に縄文~古墳時代の遺跡も見つかり「多遺跡」と呼ばれているそうです。
地図で見ると境内の敷地はとても広く、一の鳥居は本殿から数百m東に立ちます。
その社領地は約1万㎡以上とのことですが、『大和志料』に天文21年(1552年)当地の領主・十市遠勝より周囲6町四方の土地(約42万㎡)を寄進されたとあり、四方に鳥居があったという記述が見られるそうです(wiki多神社より)。
多神社の崇敬の深さが伺える話ですが、それほど古代の多氏は権勢を誇ったのでしょう。
それは血統の尊さも勿論のことだと思います。
神八井耳命は春日県(後の十市県)に邸宅を造り、そこに神籬磐境を立てて自ら神祇を司り、春日県主の遠祖・大日諸神を祭祀者として奉祀せしめた(wiki)ため、「春日宮」と呼ばれていた時代もあったそうです。
私は「多氏」の「おお」が付く人物にいつも注目がいきます。
「太安万侶」も「多」でなはく「太」ですが同一族とされていますね。
古代は「大」も「太」も同じであったと思います。
「大」が付く人物には祭祀に関わる人物が複数見られます。
例えば「大田田根子」。崇神天皇が三輪の神を祀らせた人物です。
「大伯皇女」。初代の伊勢斎宮です。
これは神武天皇の片腕として祭祀を行った多氏の祖・神八井耳命に由来する…と考えるのは突飛でしょうか?
また「意富」で「おう」「おお」と呼ぶ神も各地で見られます。
これは「大」と「意富」が同じあることから来ていると思います。
「多氏」と「意富」は同族…「多」=「意富」であると考えて差支えはなさそうです。
「意富」といえば「意富富杼王(オオホド王)」という人物がいます。
こちらは息長氏等の祖とされて近江や越前にその子孫が多く見られます。
(妹は允恭天皇の皇后です)
「おおほど」「越前」…このキーワードからピンと来た方も多いはず。
そうです越前から大和朝廷の王となった継体天皇は「男大迹(オオド)」が緯ですよね。
継体天皇の父・彦主人王の故郷は近江とされています。
意富富杼王の父・稚野毛二派皇子も息長氏と縁が深く、近江との繋がりがあります。
そして意富富杼王は応神天皇の孫、継体天皇は応神天皇の五世子孫とされています。
応神天皇の名は「誉田別命」「品陀別命」の表記をよく目にするかと思いますが「大鞆和気命(オオトモワケ命)」とも記されます。
また応神天皇といえば越前の敦賀(角鹿)の気比の神と名を交換した…という逸話があるように越前との縁もあります。
鎌倉時代に成立した『釈日本紀』所引『上宮記』逸文には
意富富等王から乎非王、汗斯王(彦主人王)、乎富等大公王(第26代継体天皇)と続く系譜が記載される(wiki稚野毛二派皇子)といいます。
もうむしろ「意富富杼王」=「男大迹天皇」じゃないの?と短絡思考的に言いたくもなって来ます。
(継体天皇についての考察は深すぎてまだまだ脳内でまとまっていないので、ここに覚書にさせていただきます。)
とりとめもない古代妄想を繰り広げてしまいましたが、多氏は謎が多い一族だと私は思います。
もう一人…飛鳥時代の多氏で有名なのは「多品治」でしょう。
壬申の乱で大海人皇子の片腕といっていい活躍をしています。
持統朝でも重用されたことが日本書紀にも残されています。
それが過ったのは、この日は大海人皇子=天武天皇に縁の場所にも赴いたからかもしれません。
【参考】
多神社の修繕の様子も興味深いです(下記リンク)