本との向き合い方
本を読むというのは、人と向き合うことに似ている。
と勝手に思っている。
はっきり言って、僕は本を読む習慣を持つようにはしていても、そこまで好きではない。
頑張らないと続かない。
動画や音声で聞いている方が楽。
だけど、本が一番吸収している。
それは流せないからだと思う。
本を読む行為は、受動的ではなく、能動的。
だから本を読む。
そして自分のペースで読める。早くも遅くもいい。
全部を読まなくてもいい。
表紙で好きになってもいい。
目次を見て読みたくなる時もある。
一冊の中でも、力の入れ具合が全然違う本もある。
この人は、ここの分野が好きなんだろうなぁとわかる時もある。
簡単すぎるように見えて、深すぎる本がある。
難しすぎて、今の自分にはちんぷんかんぷんな本もある。
でも時を経て読むと、前よりは分かるようになっている時もある。
参考書のような本から、絵本まで幅広くある。
この多様さが面白い。
本を読むのは面倒だ。
だけど、人を知ろうとするほど面倒でもない。
相手を知ろうとしなくたって、同じ時を過ごすことは誰でもできる。
友達だと言っているけど、実際その友達のことをあまり知らない人も沢山いる。
そういう関係が楽だったり、いい距離感なのかもしれない。
でも相手を知ろうと本気で思うなら、泥臭く向き合わないといけない。
本なら、何回でも読んで、読むだけじゃなくまとめてみたり、線を引いたり、違う本から引用したり、何回も何回も読む。
一回で理解できるはずもない。
人も同じように思う。
何をきっかけに興味を持ってもいい。
どんな読み方をしてもその人の自由。
でも本気で知ろうと思うなら、それくらいの労力と熱量が必要。
その努力なしに、「この人はこういう人だろう」と、これまでの経験や偏見を用いてジャンル分けをする。
脳みその効率化。
省エネモード。
全員にフルで行くなら、そりゃパンクしますもんね。
でも本当にそれだけでいいのか。
自分を深ぼろうとするほど、相手を知りたくなる、気になってくる。
手にとって、能動的にページをめくる。
自分に全く関係のない本は全然頭に入らない。
目で追って読んでいても、印象に残らない。
人を知ろうとすることは、その人の持つ文章を読もうとすること。
考えとは、脳内の文章記述。
その文章も、自分から興味を持たなきゃ、読み過ごしてしまう。
それが目に入っていたとしても。
本との向き合い方。
それは人それぞれ自由でいいけれど、
より深く味わおうと思うなら、
本当の向き合い方をする。
それは人とどう向き合うか、ということに直結している気がするから。