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「おはよう」っていうと「おはよう」っていう
はじめに
毎朝、すれ違う人々に「おはよう」といってみる。
だいそれたことはできなくても、ちょっとした心がけ一つで、世界は素敵な方向に進んでいくのだと信じています。
『文藝春秋×noteで、投稿コンテスト「#未来のためにできること」募集開始!』というのを見て、書きたい題材があったので、書いてみました。
この記事が、すこしでもなにかのお役に立てれば幸いです。
希望の朝
私は、知らない人に挨拶をする。
はじまりは子どもの登校渋り。
幼稚園、保育園の送り迎えは仕方がないとしても、小学校に上がったら、送り迎えからは解放されるものだと思っていた。
しかし、登校班のない地域なこともあり、ひとりで家を出ることはなく、学校に送っていくも、遅刻ばかり。
そこで気がついたのは、学校に、「ぎりぎり間に合わない時間」に、ゆっくり、ひとりで歩いてくる子の多いこと。
憶測だが、家を出るのは、学校に間に合う時間。
もしくは、急げば間に合う時間。
学校には、行かないといけないとわかっている。
遅刻になってしまうこともわかっている。
だけれども、足取りは徐々に重くなり、立ち止まりたくなる。
楽しく学校に通う自分の幻が、学校と自分とを、細い糸で繋ぎ止める。
背中を押してくれるはずの風は、逆方向に吹いている。
私は、自分の子を学校に送り届けた後、帰路でそんな子たちに毎朝、会った。
そして、すれ違うたびに、
「おはよう、いってらっしゃい」と声をかけた。
それぞれに事情はある。
心の内を相談できる相手がいるのかはわからない。
けれども、一所懸命に生きているのだな。
私は、足取り重く学校へ向かう子どもたちの背中に向けて、そっとエールを送るのだった。
探してほしい
ある朝、いつものように子どもを学校に送り届けて、家に帰る途中、見知った子に会った。
例の、ひとりで、遅刻気味に学校へ向かって歩いてくる子のうちの、ひとりである。
その子の家は通学路の途中にあり、家から出てくるところも見たことがあったので、住んでいる家を知っていた。
しかし、その子がいたのは、学校とは反対側の道だった。
以前、何度か、学校の先生といっしょに登校する姿を見たことがあったので、もしかしたら、先生が迎えに来るのをわかっていて、隠れているのかもしれないな、と思った私は、思い切って声をかけた。
「一緒に、行こうか?」
その子は、一旦は家の反対側に隠れたものの、自分でもどうするのがいいかわからずにいたようで、促されるまま、学校の方向に足を向けた。
私は、これが正解なのかわからず、それでもほっておくこともできないので、たわいもない話をひとりで喋りながら、通学路を進んだ。
途中、その子が道を逸れようとしたので、「こっちだよ」と通学路を示して、一緒に歩みを進めた。
すると、その子が突然、口を開いた。
「一人で行きます」
私は驚いたが、「一人で行く」と言っているのに、ついて行くわけにもいかず、本人の意志に任せて帰ることにした。
「そっか、一人で行くんだね。いってらっしゃい」
帰り道、あの子は、無事に学校にたどり着いたのだろうか、と心配になり、思いを巡らせていた。
そういえば以前、正規の通学路ではなく、先程、逸れようとしていた道を、その子が歩いていたのを思い出した。
もしかしたらあの子は、私と一緒に学校へ行くのを拒んだのではなく、いつものルートを外れてしまったことに戸惑っていたのかもしれない。
そのことに思い至った私は、急いで学校にでんわをかけた。案の定、学校のすぐそばで別れたその子は、まだ学校に現れておらず、先生方も探していたとのこと。
たぶん、自分と別れた場所で、うろうろしているのではないかと伝えると、程なくして、学校から折り返しの電話があり、無事、その子と会えて、学校に行けたとのこと。
私は、ほっと、胸をなでおろした。
余計なお世話かもと思ったが、学校に電話をしてみて、本当に良かった、と思った。
隠れたのは、自分を見つけてほしいから。
どんな自分であろうと、「この世に存在していい」と、認めてほしかったのではないだろうか、と、そんなことを思った。
「あ」っていうてみ
もうひとり、気になる子がいた。
その子は双子の兄弟で、ひとりは活発、もうひとりはおとなしい子のようだった。
はじめは二人揃って登校していて、活発な方がおとなしい方を促している様子だったのだが、いつからか、一緒に登校することはなくなって、一方は遅れてくるようになっていた。
そんなある日、私が家に戻るために通学路を曲がると、その子が後ろ向きに歩いていた。
身体は学校に向かっているのだが、進んでいるのは後ろ。そう、ちょうど、マイケル・ジャクソンのムーンウォークをしているような格好である。
「なにしてんの?」
私は思わず笑ってしまった。
いや、笑い事ではないのだけれど、気持ちだけは前に進もうとしているのだなと思うといじらしくて。
「一緒に行こ!」
私は、またひとりで喋りながら一緒に歩いた。
なにかを問いかけると、首を縦に振ったり、横に振ったりして応えてくれる。
知らないおばちゃんとは話しにくいのかな、と思いながら、それでも首を振って応えてくれるその子に感謝したのだった。
学校に着くと、その子の足がピタリと止まった。
どうやら、その日の1時間目はプールがあるようで、水着に着替えた同学年の子が、慌ただしく正門の前を横切っていくのが見えた。
「あの子達が行ってから行く?」
そう尋ねると、その子はコクンと頷いた。
みんな、行ったかなと思ったところに、海パンを履いた男の子がひとりかけてきた。
と、こちらに気がついて、
「〇〇!1時間目、プールやし、着替えたらおいでや!」
ああ、そっか。
ちゃんと気にかけてくれる子もいるんだね。
よかったね。
海パンくんが去った後、
「ひとりで行ける?」
と聞くと、
その子は大きく頷いて、校舎へと消えていった。
数日後、たまたま学校に用事のあった私は、下校時刻にその子を見かけた。
セミかなにかがいたようで、子どもたちが集まっているところにその子もやってきて、なにがあるのか、覗き込もうとしているようだった。
すると、そこにいたみんながその子を囲み、口々に言いだした。
「なんでしゃべらへんの」
「「あ」っていうてみ」
「「あ」ならいえるやろ」
もしかして…。
私は、この前、私の問いかけに首を振って、応えてくれていたのを思い出した。
あれは、話したくなかったのではなく、声が出せなかったってことなのだろうか。
「場面緘黙」
もしそうなのだとしたら、きっと、とっても辛いだろうな。
集団の中には、見知った子もいたので、それとなく輪に混じって話題を逸らした。
そして、その子と並んで、途中まで一緒に帰った。
話しかけると、首を大きく縦に振って、一所懸命に応えてくれたので、この前は、私と話すのが嫌なのかな、なんて考えてしまってごめんね、と思った。
よのなかま
私は、知らない人に挨拶をする。
朝、登校していく小学生、中学生、高校生。
通勤途中の人や、ゴミ出しをしている近所の人。店舗の前を掃除している銀行員。
幼稚園バスを待っている親子。
名前も、生まれも育ちも経歴も、なんもかんも知らないし、顔だってなかなか覚えられてない。
だけど、みんな、子どもの学校の通学路にいる人で、「通学路仲間」と勝手に命名している。
この、「〇〇仲間」というのを勝手にたくさん作っていくと、まったく知らない人にも気軽に挨拶できるから不思議。
早朝ウォーキングをしていたら、出会う人はみんな「早起き仲間」だし、図書室を良く利用するなら、そこで出会うのは「図書室仲間」、もしくは「本好き仲間」でもいいかもしれない。
勝手に共通点を見つけて、勝手に仲間意識を高めて、勝手に挨拶をする。
すると、10回に1回くらいは、挨拶が返ってきたり、会釈してくれたりしておもしろい。
相手はびっくりした顔をしていることもあるけれど、そんな反応もほっこりする。
ああ、挨拶してもいいのね、って気がついてくれたらめっけもの。反応なくても平気の平左。
次は、もっと笑顔でいえばいい。
声に出すのが難しければ、にこっと笑顔を向けてもいい。気づかないふりをしたり、険しい顔をするよりずっといい。
自分に気がついてもらえるだけで、ああ、私は、ここに存在しててもいいのねって、安心できる。
…そんなこと、ないですか?
「〇〇仲間」が、どんどん、どんどん、大きくなって、「生物仲間」とか、「銀河系仲間」とか、「この世に存在する(した)仲間」とかになっていったら、世の中の悩み事なんて、1ミリも残らないように思うのは、私だけ?
なぜ、みんな、敵を作りたがるの?
敵を作るより、味方を作るほうが簡単だし、楽しいし、幸せになれるのに。
これを読んで、ふむふむ、なるほどと思ってくれた人がいて、明日から早速「おはよう」や会釈をはじめてくれたなら、こんなに嬉しいことはない。
すこしずつでもいい。
世界が、やさしい方向へと、進んでくれたらいいな。
〈場面緘黙の理解が進む絵本〉
『なっちゃんの声』
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