『君たちはどう生きるか』元ネタ(?)探訪
宮崎駿『君たちはどう生きるか』公開以降、雨後の筍のように考察サイトが現れ、元ネタ等を記載しています。私もこの映画を5回ほど繰り返し見たので、考えた事を文章化してみようと思いつきました。同工異曲というか、他の方と同じ話を繰り返すことになるかもしれませんが、一つお付き合いください。
1. 火と風
冒頭、眞人君の産みの母親であるヒサコが火災によって死亡。主人公の眞人君が火災現場に向かう姿が描かれます。既に多くの指摘にあるように、サイパンの戦いがこの1年後に言及されることから、この火災は空襲によるものでないと考えることができます。
ですが、火災か空襲かの以前に、そもそもこの場面は何を目的に描かれているのでしょうか。
宮崎駿の読書体験にそのヒントがあります。
宮崎駿は、様々な場所で堀田善衛という作家への称賛を述べてきました。
との言もあり、宮崎作品を考察する上で重要な作家です。
その堀田善衛が鴨長明の方丈記を考察したエッセイ『方丈記私記』は、特に重要な作品と言えます。『方丈記私記』において堀田は、鎌倉時代の混乱、特に「火災現場」の描写と鴨長明の記述に着目し、それを自身の空襲体験と結びつけています。特に重要なのが、堀田がそこに見た開放感と焦燥感でしょう。
「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。」
古きものたちへの「ざまあみろ」という感覚と、それでもなお新時代が到来しない焦燥感。
おそらく、宮崎駿はそれを我々の現在・未来の姿と考えています。というのも、『本へのとびら』という児童書紹介の本に、以下のような宮崎駿の記述があるのです。
宮崎駿はそのような時代感覚を堀田善衛の空襲体験および鎌倉期の混乱と比べている、と言えるのではないでしょうか。あの火災は、我々の過去でもあり、現在でもあり、未来でもあります。そのため、表現としてはやや抽象的な部分が含まれています。そして、前述の「風が吹き始めた時代」という言葉は、夏目漱石の『野分』という小説を想起させます。この野分の記述を見ると、宮崎駿の心情に重なってくる気がします。
2. 火と女
また、多くの人が既に気付いている通り、焼死する母のイメージは、記紀神話のイザナミでしょう。日本の神々と島々を産み落としたイザナミは、火の神・カグツチを産んだ際に、陰部に火傷を負って死んでしまいます。
このイメージは、映画の他の部分とも繋がっています。例えば、イザナミが焼け死んだ後、イザナギがカグツチを斬り殺すのですが、その血が岩石に落ちることで雷や刀剣の神が生じます。火打ち石と石火、そして鍛冶の寓意ですね。火と石と、そして暴力と母の死。『君たちはどう生きるか』の神話的モチーフは、それらを基本としているようです。
また、宮崎駿は最初期から鍛冶のモチーフを抱えていた、ということも思い出されます。幼少期の宮崎駿は町の鍛冶屋を見るのが好きであり、東映動画に入社する際にも鍛冶の絵を提出しています。そのモチーフは『太陽の王子 ホルスの大冒険』にて活かされることとなりました。さらに後の『もののけ姫』においては、その罪悪の側面が強調されていくことになります。
また、少し話題が変わりますが、宮崎駿の愛読する夏目漱石の作品を見ると、以下のような描写が見られます。
崩壊する櫓と、そこにいる炎に包まれた女。そこに必死に駆け寄る男。確証はないものの、一つのイメージ元となりえるような気がします。
3. 漱石と俳句のような映画
眞人君が屋敷に着いた際に、屋敷の廊下や階段の描写があり、そこに妙に長い時間が割かれています。先ほどの引用に続いて、また牽強付会になるかもしれませんが、このシーンは夏目漱石の『草枕』を想起させます。
『熱風』のとある号によれば、宮崎駿はこの小説の描写のモデルとなった前田家別邸を訪れたことがあります。ただし、『君たちはどう生きるか』の屋敷の形が前田家別邸と似ているわけではありません。
このような強引な比較から話を始めたのは、以下の興味深い対談の内容と繋げるためです。
夏目漱石に関する宮崎駿と半藤一利の対談です。『草枕』が俳句小説たる所以は自作の俳句を各所で引用しているからだ、と半藤一利が述べ、宮崎駿はそれを聞いています。『君たちはどう生きるか』に無数の自己引用が見られることはご存知のとおりです。パズーのオーニソプターが崖から落ちる場面や、千尋がステンドグラスを破る場面など、数え上げればきりがありません。それらの自己引用を最初に見た時、私は「遺作だしそういうものかな」と思っていました。そもそも宮崎駿は同じ描写を別作品で流用することの多い作者ですしね。ただ、『君たちはどう生きるか』のそれは過去のものと比較しても量が多く、そしてなにより自覚的な引用に見えます。そのことを考えたとき、「ひょっとしてこれは宮崎流の"俳句映画"なのかな」と感じたというわけです。
過去作を引用して作った作品というのは世の中に数多あり、この説について確証があるわけではありません。ただ、近年の宮崎駿が妙に頻繁に漱石を語ってきたことを見ると、あながち的はずれな推測でもないと思います。
4. 幽霊塔
宮崎ファンなら一瞬で気付く通り、大叔父の塔は明らかに江戸川乱歩の『幽霊塔』の影響を受けています。ジブリ美術館で幽霊塔の展示も開催していますし、何度も宮崎駿作品に登場してきたモチーフです。『ルパン三世 カリオストロの城』はその典型と言えるでしょう。
劇中、大叔父が発狂して塔の中へ消え去ったことが語られたり、塔が古めかしい(疑)洋風であることも『幽霊塔』に由来する要素でしょう。また、塔にまつわる「美女」の失踪、というのも、重要な共通項です。和風の屋敷と対になった(疑)洋風の崩壊、ということにも色々とテーマがあるように語れるかもしれませんが、それは少し考えすぎでしょうか。
5. タイトルの重要性と分かりにくさ
映画の中盤、眞人君は吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を見つけ、それが産みの母からの贈り物であることに気付きます。それを読んだ彼は涙を流し、そして継母・夏子への態度を急変させます。なぜ眞人君は泣いたのか。なぜ態度が変わったのか。宮崎駿は何も説明しません。
「無知蒙昧な愚民どもめ。タイトルにある本くらい読んでおけ。」
ということなのでしょうか。
あえて不要な説明すると、『君たちはどう生きるか』は太平洋戦争の少し前に書かれた小説で、『日本少国民文庫』という児童向け教養書シリーズのうちの1冊です。作者の吉野源三郎はいわゆる進歩的文化人であり、軍国主義が強かった当時は官憲に目をつけられて逮捕されたこともあります。その後貧困にあえいでいたために、友人の小説家から『日本少国民文庫』の編集の仕事を任され、『君たちはどう生きるか』を書くことになったわけです。そもそも『日本少国民文庫』なる企画自体、反動的な世情とは異なるリベラルな教育を児童に与えようとして始まったものです。その文脈と、宮崎駿の「風の吹く時代」発言を合わせて、現代の右傾化への警鐘を読み取ることも可能ですが、ひとまずそれは置きます。
『君たちはどう生きるか』は、コペル君というあだ名の少年が、ノートに書いた叔父とのやり取りを通じて倫理や社会科学を学んでいく、というストーリーです。物語後半、コペル君とその友人たちは威圧的な先輩の暴力に直面するのですが、コペル君は友人を見捨てて逃げてしまいます。そのことを恥じて友人と再び会う事を避けるコペル君に対し、自らの過ちにきちんと向き合わなければならないと叔父は教えます。
眞人君は、その叔父の教えに従って回復していくコペル君に涙していたわけですが、小説を読んだことのない人には「何のことやら」だったでしょう。眞人君は、継母・夏子への自分の態度がよろしくないことを自覚していますが、夏子への直面をずっと避けてきたわけです。その時、実母から贈られた本の教えに感動し、また夏子の失踪をきっかけとして、態度を一新するわけですね。この部分、映画単体としてもう少し分かりやすくできないだろうか、などと私は思いますが、皆さんはいかがでしょうか。もはや宮崎さんはそんなことを気にしているような段階にはないのかもしれませんが……
6. 地獄の門と塔
眞人君が塔へと導かれていく時、入り口のアーチにダンテ『神曲』の地獄の門のフレーズが彫られています。
そもそもこの映画のストーリー自体が『神曲』の地獄めぐりそのものであり、また宮崎駿は『風立ちぬ』でも神曲に影響されていたことですし、この引用にも何ら驚くべきところはありません。
先ほどから夏目漱石にこじつけて推測を進めてきましたが、ここでも漱石のとある短編が思い浮かびます。
この『倫敦塔』の主人公は、まるで見えない力に引きずりこまれるかのようにロンドン塔を訪れ、ひょっとして地獄の門でもあるのではないかと訝しみます。そして、見学の途中で妙な子連れの婦人を見かけます。その後、彼はジェーン・グレイの処刑の一幕を幻視し、その顔が先ほどの子連れの婦人と瓜二つであることに気付きます。ジェーン・グレイが処刑される瞬間、主人公はその幻想から覚めて現実に戻ります。塔・地獄の門・幻想・顔の似た二人の女性・異なる二つの時代の繋がり。『君たちはどう生きるか』となにか通じるものがあるように見えます。これにも確証はありませんが。
7. 融ける女とヤマトタケル
塔に入った眞人君は、青サギの作り出した偽物の実母・ヒサコに触れますが、その偽物はドロドロに融けてしまいます。このイメージにはおそらく参照元があります。それは、諸星大二郎の漫画『暗黒神話』です。
ファンもよく知る通り、宮崎駿は長らく諸星大二郎から影響を受けてきました。ナウシカのイメージ元が諸星の『失楽園』にあることなどは有名です。宮崎駿自身、諸星大二郎とやまだ紫を漫画表現の極地として称賛しています。そして、その諸星作品のうちでも傑作と名高いのが『暗黒神話』です。
『暗黒神話』は、ヤマトタケルの生まれ変わりである主人公が不思議な力に導かれ、各地の遺跡をめぐるうちに宇宙的な存在との繋がりに目覚めていくという、ダークファンタジーSF作品です。
作中、ヤマトタケルの妃であるオトタチバナは、ある種の冷凍睡眠装置を使って現代まで生きながらえるのですが、装置がうまく働かず、覚醒した途端にドロドロに融けてしまいます。先ほど挙げた画像は、その場面からのものです。
記紀神話のヤマトタケル・オトタチバナ要素は、『君たちはどう生きるか』の他の部分とも繋がっています。
例えば、東征の際に火攻めにあったヤマトタケルは、ヤマトヒメから受け取った草薙剣と「火打ち石」をもって反撃します。
また、船上で荒ぶる神の波にもまれた際に、自らの命を犠牲にしてヤマトタケルを救ったのはオトタチバナです。
地域によっては、ヤマトタケルが巨大な悪魚を倒したという伝説があります。そして、その悪魚の毒気を治す際に清水を飲んだという話もあります。
眞人君の冒険と重なってきますね。
ヤマトタケルの伝説をアニメーションで扱った事例は古くからあります。東映動画の『わんぱく王子の大蛇退治』においては、スサノオが怪魚アクルを倒します。そして、宮崎駿の参加した『太陽の王子 ホルスの大冒険』でも同様の場面が描かれ、これは『未来少年コナン』でも踏襲されます。この類型はやがてドラゴンボールやハンターハンターなどに受け継がれます。ヤマトタケルから連綿と続く、怪魚退治の冒険譚の系譜というわけです。
さらなる『君たちはどう生きるか』との類似点として、ヤマトタケルが死んだ際に、白鳥・白鷺に姿を変えて故郷に飛んでいったことなども思い出されます。
吉野源三郎の小説の名を冠して、しかも戦中が舞台という妙に政治的・歴史的なニュアンスを帯びた映画で、宮崎駿がヤマトタケルを引用するというのは、妙に皮肉が効いています。大叔父の「血統」が言及されるのも意味深ですね。彼が皇族だとまでは言いませんが。
眞人君がその血族の継承を拒否して「友達を作ります」と言っていることからも、このヤマトタケルのモチーフは一種のアンチテーゼとして用いられているように思えます。「僕自身の塔を建てます」とは言わないわけですね。あくまで友達なのです。
8. フェリーニとメタフィクション
眞人君が塔の世界に降り立った際に、フェリーニの『8 1/2』のようなカットが出てきます。『8 1/2』は監督の実人生を模したストーリーの映画で、映画監督の主人公が周囲の関係に苦悩する現実の風景と、現実逃避の妄想の映像が交互に現れます。また、母親に関するコンプレックスや、様々な女性への性的なものを含む妄執が描かれています。なので、『君たちはどう生きるか』との類似に関しては、何をか言わんやといったところです。
宮崎駿は若い頃にはアート映画を頑張って見ようとしていた時期もあったようですが、近年は映画を見ること自体がほとんど無いらしいです。鈴木敏夫のラジオ番組における証言によれば、『8 1/2』を含むフェリーニ作品を宮崎駿に見せたのは鈴木敏夫であり、そして大変気に入ったようだったとのこと。
そうすると、『君たちはどう生きるか』にも監督の実人生や周囲の人間関係が反映されている気がしてきます。現に鈴木敏夫はその対応関係を『SWITCH』誌のインタビューで語っています。それはそれで面白い話題ではあるのですが、作品体験から少し離れすぎているので、「8 1/2的要素がある」というところまでに留めておいた方が無難でしょう。既に書籍等の発言と照合しながら考察しているのに、何を今更という気もしますが。
9. 門と扁額
最初に降り立った島で、眞人君は墓の門を見つけます。そこには、「ワレヲ學ブ者ハ死ス」と書かれています。
既に多くのサイトで指摘があるように、これは林房雄の短編小説『四つの文字』からの引用であり、さらにその元となっているのは中国の画家・斉白石の警句「学我者生,像我者死」=我に似せる者は生き、我を象る者は死す、でしょう。いくつかのサイトでは、これを宮崎駿フォロワーに対する「真似するな」という警句であると解釈したようですが、個人的には「宮崎駿がそんな呑気な事を語るだろうか」という疑問があります。
林房雄の『四つの文字』で重要なのは、むしろその言葉が出てきた後の部分です。ここでは、小説の設定だけでなく文章を丁寧に追う必要があります。
ここでおそらく宮崎駿が着目しているのは、「虚無」つまりニヒリズムでしょう。宮崎駿はインタビュー等の中で何度もニヒリズムという言葉を口にしてきました。
宮崎ファンならば、以上の内容から、ナウシカの結末における対話が瞬時に思い出されることでしょう。
ここで既に「友愛」が虚無から生じるという話をしていることが、驚きとともに思い出されます。眞人くんの最後の選択である「友達をつくる」ということは、人生や世界に関するニヒリスティックな認識と対となっているのです。墓という全ての終着点や、そのニヒリスティックな警句と向き合うことは、ラストへの布石なのです。
10. 眞人という名前
さて、無事に島を脱出した眞人君に対し、キリコさんは名前を尋ねます。眞人という名前を聞いたキリコさんは、眞の人か、どおりで死のにおいがプンプンする、と答えます。
既にお気づきの通り、「死のにおい」も先ほど引用したナウシカの終盤へのセルフオマージュでしょう。ナウシカと対話する墓所の主のセリフに「お前にはみだらな闇のにおいがする」というものがあります。
それだけでは「眞の人」という部分が不明瞭ですが、それは昔の文語訳の『神曲』を読めば簡単に解決します。以下は、神曲の冒頭でダンテがウェルギリウスに出会う場面です。
文語体を読み慣れていない人からすれば、なんのことやら分かりません。そこで、口語訳の該当部分を見てみましょう。
ずいぶん格調が低くなった気もしますが、これで理解できます。原語で"omo certo"、口語訳で「なま身の方」と書かれた部分が、文語訳では「眞の人」となっているわけです。(神曲に出てくるのは基本的に生きた人間ではありませんが、主人公のダンテは生身の生きた人間です。)
眞人君は塔の世界に属するわけではなく、あくまで現実世界に帰らなくてはなりません。ワラワラのような、これから生まれる魂というわけではなく、未来には「死」が待っている生きた人間です。その意味において、「死のにおい」がするというキリコさんの発言は、逆説的ではあるものの納得できます。先ほど述べた、ニヒリズムがあるからこそ友情を結びたいという逆説とも似た話です。生と死が循環構造になってグルグルめぐっています。
11. 画の世界と漱石、または水木しげる・諸星大二郎・グリモー
塔の世界の中では、無数の西洋絵画の引用がなされています。(現実側では少なく、屋敷の襖に狩野永徳のような絵が描かれているだけです。)近年の宮崎駿は、『風立ちぬ』におけるモネや、『崖の上のポニョ』におけるミレー、ウォーターハウス等、妙に西洋絵画の引用を重ねてきました。しかし、『君たちはどう生きるか』における引用の量は過去のものより圧倒的に多いです。(その引用された絵画の解釈については、美術史家の松下哲也さんが配信で語っているので、興味のある方はご覧になってください。)
なぜ、今回の映画でここまで絵画の引用が増えたのでしょうか。手前味噌な推測ですが、ここでもまた漱石の影響があるように思います。漱石は、『草枕』にて以下のような文章を記しています。
ここでは「時間」の概念をキーとして画と詩を二分するレッシングの説が語られ、主人公はその統合の可能性を検討しています。画、つまり絵の世界は時間の進行の無い世界だと言っているのです。思い出してみると、大叔父の塔は時空間にまたがって存在していました。
また、漱石は『三四郎』にて同じ概念を別の形で語っています。
ここでは画の不変性が永遠の少女の夢に仮託されています。ヒサコ=ヒミが少女の姿をして現れることには、一応物語上のロジックが用意されていますが、このような「絵の世界」の反映と見ることも可能です。
とは言うものの、絵画の引用による異世界描写そのものは、何もこの作品に特有の手法ではありません。『君たちはどう生きるか』ではシュルレアリスム絵画からの引用が多く見られましたが、シュルレアリスム絵画による異世界というとまっさきに思い浮かぶのは水木しげるでしょう。
あるいは、先ほども言及した諸星大二郎の『失楽園』にも、絵画の引用が見られます。
また、引用とは異なりますが、「絵画の世界」という発想には、ポール・グリモーのアニメーション映画『王と鳥』または『やぶにらみの暴君』の影響が見られます。『王と鳥』は圧政に立ち向かう人々を描いた寓話的な映画なのですが、絵画から抜け出た羊飼いと煙突掃除夫の恋も描かれています。宮崎駿と高畑勲がこの作品から大いに影響を受けた、ということは自他ともに認めるところです。
12. 児童書の世界
絵の世界は、同時に児童書の世界でもあります。既に多くの人が気付いている通り、『君たちはどう生きるか』には宮沢賢治を想起させる箇所があります。例えば、老いたペリカンが方舟にて死を迎える場面では、『よだかの星』が思い浮かびます。
そして、鍛冶屋で眞人君がインコたちに取り囲まれる場面も、宮沢賢治の『注文の多い料理店』を想起させます。
日本の童話だけではありません。海外の童話からの影響と見られるものもあります。例えば、インコ兵士たちの持つ調理器具のような武器は、『チポリーノの冒険』から影響を受けたもののように見えます。宮崎駿はこの児童書のヴラジーミル・スチェーエフの絵の描き方に影響を受けたと語っています。(日本語版におけるスチェーエフの挿絵は、ロシア語版に準拠したものです。)
また、鳥や魚の描写については、ひょっとするとアンドルー・ラング世界童話集のH.J.フォードの挿絵の影響があるかもしれないと、個人的に思います。(これらの児童書からの影響全般については、宮崎駿自身が『本へのとびら』の中で語っています。)
ラング童話集の中には、「鳥の王」や「ジャムとバター」等の映画と共通する要素も見られるため、宮崎作品とラング童話集全体を比較してみるのも面白いかもしれません。
13. 産屋とタブー
さて、様々な冒険の末、眞人君とヒミは石の産屋にて夏子を発見するのですが、夏子を取り囲む「石」の放つ電撃と、紙垂のようなものでできた「竜」に追い返されてしまいます。ここにも記紀神話のモチーフが見られます。
ヒサコとイザナミとの関係については既に説明しましたが、ここでは夏子がイザナミの役割を果たしています。死んで根の国に去ったイザナミを、イザナギは追いかけます。なんとかイザナミに再会できたイザナギですが、一緒に地上に帰れるよう相談してみるから、そこで覗かずに待てと言われてしまいます。しかし、待ちかねたイザナギが櫛に「小さな火をともして」覗き込んだところ、イザナミの体は腐ってウジがたかり、その周囲は「雷神たち」が取り囲んでいました。
これで、なぜ「タブー」いう話が出てきたのかと、なぜ石が「電撃」によって攻撃してきたのかが分かりますね。ヒミが「小さな火」をともして案内する様子にもシンボルが込められています。
また、記紀神話には類似する別の話があります。トヨタマヒメの婚姻の物語です。山幸彦は借り受けた釣り針を海で無くし、海中へと探しに出かけるのですが、そこでトヨタマヒメと出会います。その後、妊娠したトヨタマヒメは、絶対に産屋を覗き込んではいけないと山幸彦に忠告を残します。怪しんだ山幸彦が産屋を覗き込むと、トヨタマヒメは「ヤヒロワニ」に姿を変えていました。
このイザナミの物語とトヨタマヒメの物語は、どちらも「異界女房」と呼ばれる同型の物語となっており、よく似ています。そして、トヨタマヒメにて「産屋」の要素が出てきます。「ヤヒロワニ」はサメと解釈されるのが普通ですが、日本書紀の記述の中にはワニではなく「竜」となっているものもあります。これは中国からの影響のごく初期のものと言われていますが、これで紙垂が竜に変身した理由もわかります。
以上からも分かるように、宮崎駿は今回、記紀神話を読み込んで制作しているようです。初見では何をしている映画なのかよく分かりませんが、何度も見ていくうちにスンナリ飲み込めてきます。
14. 性と少年の悲劇
この映画、妙に白い鳥の糞の描写が多くはないでしょうか。鳥が出てくるのだから当たり前と言えなくもないですが、それにしたって描こうという意図が無い限りそういうものは登場しません。ヒッチコックの『鳥』でだって別に糞は描写してないですしね。ここには何の意図があるのでしょう?
もう色々な人が既に指摘されているのでもったいぶる意味もないでしょう。あれは精子ではないでしょうか。例えば、青サギが眞人君の部屋に侵入した際、窓枠と壁に糞を残していきますが、ご丁寧にその糞の白い筋が眞人君の股の間から見えるような構図をとっています。
つまり、私が言いたいのは『君たちはどう生きるか』は眞人君が未成熟な性欲と向き合う物語としても読むことができる、ということです。
『君たちはどう生きるか』の原作がジョン・コナリーの『失われたものたちの本』であることは皆さんも御存知の通りですが、この小説も性と暴力のモチーフにあふれています。冒頭に強姦や同性愛差別の話題が登場しますし、異世界での冒険パートでは母子相姦的な場面が現れます。
宮崎駿はなぜこの物語に共感し、今回原作としようとしたのか。このヒントは、また別のインタビューの中に隠れています。
宮崎駿はロバート・ウェストールという児童文学者のファンで『ブラッカムの爆撃機』等の作品の日本語版のために絵や漫画を提供してきました。そして、その漫画の中で、興味深い事を語っています。
『禁じられた約束』は第二次世界大戦中のイギリスを舞台にした、ある少年の主人公と病弱な少女の恋をめぐる怪奇譚です。少年は徐々に少女に惹かれていき、やがて恋に落ちるのですが、そこで性的な目覚めも経験します。
しかし、少女はやがて不治の病によって死んでしまいます。少年は失意のうちに暮らしていますが、ある日、少女の幽霊と出会ったところから物語が急転していきます。少年は少女の幽霊に夢中になり、まるで取り憑かれたようになり、生気を吸われて瀕死の状態に陥ります。
事態を理解した少女の父親は、少女の霊と少年を引き離そうとします。
お分かりでしょうか。ここでは、少年の性的な成長と少女の病状が並行して進行し、やがて少女の死を迎えるのですが、少女が霊と化すことでその主題が延長され、少年はスポイルされています。そこで少女の父親が、少年にとって必要な挫折と救いを与えてくれるのです。
宮崎駿がこの挫折の物語に共感していたとすれば、性的なモチーフは必須と言えます。性は少年の挫折と悲劇を描くために重要なものです。そしてそれは、少女の救出を目的とした少年の冒険譚を描いてきた宮崎駿作品全体にとっては、陰画でもあります。
少年の悲劇について、宮崎駿は以下のように述べています。
そして、同じインタビュー内でも述べていますが、この「悲劇性」は『崖の上のポニョ』の宗介が持つ全肯定的な楽観とは対照的です。ポニョにおける宮崎駿は、幼児の男女一対を通じて全世界と自分自身を丸ごと肯定する異様な物語を作りましたが、眞人君はその世界には行けません。なぜ行けないのか。断定的に言ってしまえば、二次性徴を迎えた男子はその世界には行けないのです。
また、宮崎駿は『風立ちぬ』において「澄んだニヒリズム」を含んだ青年の物語を描きました。しかし、眞人君はその領域にたどり着くには経験不足でしょう。彼にはそのような自負も責任感もまだありません。
まとめるとこういう事になります。
『君たちはどう生きるか』とは、全肯定的幼児の宗介と、澄んだニヒリズムの堀越二郎の中間の、時間の停止した絵画の煉獄の中で、性的挫折に直面する少年・眞人の悲劇です。
このようなフィルターを通じて映画を見てみた時、宮崎駿という人の必死さと面白さがより伝わってくるのではないでしょうか。