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【歴史その2】「カンカンに怒る」にも歴史がある

「怒りという感情」=個人的で本能的なもの?

 生きていれば、一度は「カンカンに怒った」ことがあると思います。「仏の顔も三度まで」という言葉があるくらいですから、仏様だって我慢の限界を越えれば怒ります。私たち人間では、理不尽な振る舞いや裏切りなど理由は様々ですが、堪えきれない怒りという感情が身体から湧いてくることがあります。

 怒っている時は、冷静に我が身を見つめることはできませんが、一見すると、この「怒りという感情」は、とても個人的なもののように感じます。同時に、怒りは、喜怒哀楽というぐらい人間にとって当たり前の感情のひとつで、本能的なもののようでもあります。

 しかし、「カンカンになる」という表現が、日本語特有なことからも分かるとおり、怒りを認識し、表現する言葉は社会的で文化的なものです。加えて、どういったことに対してどのように怒るのかということも、私たちは本能的に知っているというよりも、社会生活を送る中で身に付けています。

 つまり、怒りという感情も社会や文化といった環境に応じて形づけられているということです。そのことは、環境の変化に伴って怒りという感情のあり方も変化する可能性があることを示しています。

 そう、「カンカンに怒る」には、歴史があるのです。

昔の人々は今より怒りやすかったのか

 怒りという感情の歴史を考えるとき、昔の人々は、現代の私たちより、良く言えば感情表現が豊かで、悪く言えば粗野で、喜怒哀楽がはっきりしていたのではないかという考えに陥りがちです。なんとなく、感情をコントロールすることができていなかった子供が、洗練された大人になったというイメージを歴史に当てはめてしまうことがあります。

 その一方で、「最近の若者はキレやすい」といった見方もあります。これは、『警察白書』における少年(14~19歳)による凶悪犯罪の件数の推移に基づくもののようですが、統計を長い目で見れば、必ずしもそうとも言えないようです。

 ともあれ、そもそも時代時代の人々の怒りや怒りやすさを測れるような尺度はあるのでしょうか。むしろ、怒りという感情が、どのように当時の社会や文化と関わり合いながら形づけられてきたのかを考える必要があります。

歴史の中の様々な怒りのかたち:セネカの場合

 さあ、これから歴史を紐解きながら、怒りのかたちを具体的に見ていきます。

 まずは、古代ローマの政治家であり哲学者でもあったセネカにとって、怒りがどのようなものだったか見ていきましょう。セネカは、その名も『怒りについて』という著作を残しています。

 この著作の中で、セネカは怒りを悪であると述べて、それを抑制する必要性を訴えています。その主張は、著作のタイトルと相まって、私たちと同時代的な印象を与えますが、当時は感情という概念がなかったことを踏まえる必要があります。

 また、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの考えなどに影響を受けていて、怒りは名誉を保つことと密接に結びついていました。このようにセネカにとって、怒りは古典哲学の世界の中に位置付けられていました。

歴史の中の様々な怒りのかたち:ダーウィンの場合

 時代はだいぶ下りますが、進化論で有名な科学者であるチャールズ・ダーウィンも、怒りについて考えを巡らせた人物のひとりです。ダーウィンは、『人及び動物の表情について』という本を1872年に出版し、感情と顔の表情との関係について考察しました。

 この感情と顔の表情を結びつけるという考え方は、現代の私たちにも分かりやすいでしょう。というよりも、そのような私たちの物の見方の原点となったのがダーウィンの研究です。

 ダーウィンは、特に人が怒った時に口角を上げて歯を見せる表情に注目しています。そして、その表情は、かつて人間が猿であったという進化の過程の名残だとしています。ダーウィンにとって、感情は人間の進化を裏付ける重要な特徴のひとつでした。

歴史の中の様々な怒りのかたち:現代インドの場合

 ここで西洋世界を離れて、ほかの地域の怒りのかたちを見てみましょう。

 1970年代以降のインドの映画における「怒れる若者」の描かれ方について見ていきます。

 1970年代から80年代にかけてインドでは、社会的な正義を遂行するために悪に立ち向かう若者の姿を描く映画がいくつか上映されました。評論では、そのような映画の主人公を「怒れる若者(angry young man)」と呼びました。

 そのような「怒れる若者」を描く映画を通じて、怒りに対するインド社会の理解は変化していきました。それまで自制されるべき個人的な感情とされてきた怒りが、社会的正義のために表現されるべき感情へと変貌したのです。

私が怒るのはなぜ?

 ここまで、怒りの歴史をスナップショット的に見てきました。

 私が「カンカンに怒る」のも、遠い未来から見れば、今の時代特有のあり方なのかもしれません。もちろん、その視点から見ることはできませんが。

 ただ、感情というとてもプライベートなものが、歴史的に形づけられていることを意識すると不思議な気持ちになります。自分が自分でなくなるような。

 そんなことを言っても、きっと、また「カンカンに怒る」ことになるのでしょう。

<参考文献>

バーバラ・H・ローゼンワイン(2021)『怒りの人類史:ブッダからツイッターまで』高里ひろ訳、青土社

バーバラ・H・ローゼンワイン、リッカルド・クリスティアーニ(2021)『感情史とは何か』伊東剛史・森田直子・小田原琳・舘葉月訳、岩波書店

パオロ・マッツァリーノ(2007)『反社会学講座』筑摩書房

Dixon, Thomas (2023) The History of Emotions: A Very Short Introduction. Oxford University Press.

Dixon, Thomas (2020) “What is the History of Anger a History of?” Emotions: History, Culture, Society, 4, pp. 1-34.

Rajamani, Imke (2012) “Pictures, Emotions, Conceptual Change: Anger in Popular Hindi Cinema.” Contributions to the History of Concepts, Volume 7, Issue 2, pp. 52-77.

<次回予告(11月23日公開):「朝、目覚まし時計で起きる」にも歴史がある>

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