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小説|シテとシテツレの島


島アンソロジー「貝楼諸島より」
参加作品です。



シテとシテツレの島

 「驚いた。椿事もあったものだな。この島に自ら上陸してくるものがあるとは」
 壊れかけの桟橋で足を踏み外して海へ落下しかけた私に手を差し伸べながらその男ーー顔の四半分を能面の小面こおもて で隠したーーは言った。
 「こ、この島の方ですか」
 聞くと、男は「そうだが」と首を傾げて何か面白いとでも言うようにわずかに口角を上げた。同じ男性という分類に属するものではあるが自分とは違う生き物のように感じられた。
 「私は旅の者です。貝楼諸島の島々を巡っています。となりの■■島でこの島のことを勧められたものですから船を漕いでやってきましたが、接岸できる場所を探すのに苦労しました。ここは島の」
 「それは向こうで何か礼を欠くようなまねをしたのではないか」
 天鵞絨の袋から方位磁針を取り出そうとしていた手が思わず止まった。男を見上げる。方位磁針の真鍮が指に触れてひんやりと感じられた。
 「この島を勧めるものなど聞いたことがない。俺は常々、博物館の招待券を方々へ撒いているが誰も来ないし船が近づいてくることもほとんどない。悪評はあれど良い噂はない。何せ唯一の住人が俺だからな」
 「博物館があるんですか」
 特定の語に反応するからくりのように思ったことを口に出すと小面の男は真顔で「反応するのはそこなのか」と言った。
 髪は呂色塗りのようで瞳は射干玉のようだ。その左眼を半ば隠すように能面をかぶっているせいでどちらを見て話せばいいのか分からなくなる。
 「博物館が好きで見つけたら入ってみることにしています。その、入場料にもよりますけどお恥ずかしい話ですが裕福な方ではないので、でもできるだけ」
 男はまた首を傾げるような動作をした。垣間見えた真顔は既に消え、また少し口角を上げて「招待券はまだたくさんある。一枚やろう」と言った。
 私は慌てて小さく何度も頷き「ありがたいお話です」と言った。

 桟橋から博物館まで小面の男の先導で歩いた。
 事前に海図を見て分かっていたことだが、この島は半刻もあれば端から端まで歩いて移動することができる。海岸沿いは一部崖のように切り立っているが山らしい山はなく、そういう特性の土であるのか木々はひ弱で、地に露呈した真黒の岩には藍銅鉱に似た青い輝きがかすかに混じっていた。間歇的に吹く風は寂寥としていて、自分とこの男以外の人の気配を感じさせることはなかった。
 小面の男はゆったりと歩いてはいたが長身で歩幅が大きく、小柄な私がついていくには多少の苦労を要した。
 男は道すがら愉快そうに身の上の話をした。曰く、自分はこの島の唯一の住人であり、島の一番中心にある博物館の管理を仕事としている。博物館には自ら収集した品々を並べている。一人きりで島に住んでいることに特に不便はない。ただし博物館の訪問者が増えないことには十重二十重に不満がある。

 「ここからはまた遠い場所だが、大昔にな、具足玉国そないだまのくに と呼ばれる国があった。玉とは真珠だ。
 ある時の領主は貝玉奉行という役職を置いてまで真珠の、つまりアコヤ貝の密漁を取り締まった。アコヤ貝の貝肉は領主のみが食べられるものだったし真珠は薬としても重用されていた」
 私の半歩前を歩いていた男は上機嫌にこちらを振り返る。
 「領主が口にしたアコヤ貝から偶然に真珠が出てくると御喰出しおはみだし といってそれもまた珍重された。
 想像してみろ、庶民には到底手に入らぬ大層高級な身なりをした領主が威儀正しく食事をしている。そしてその赤い舌の上に乳白色のぬらりと光る小さな珠が鎮座しているのを。
 御喰出しなどと呼んで桐の箱に入れて丁重に扱う。おそろしくくだらないが美しいことだ。そういうこの世の断片をな、集めているのだ。俺の博物館には」
 私はその乳白色の珠の有り様を頭の中で明瞭に再現するよう試みた。領主の唾液で光る、養殖ではない天然の、その小さな真珠の一粒。桐の箱と言ったが直に入れはしないだろう。そこには真綿の繊維が敷き詰められ、蓋には由緒を記す墨書きがある。
 相槌を打たなくなった亡羊のような私を見て男は「聞いているのか」と不満げな声を洩らした。
 「もちろん聞いています。考えていたんです、真珠のことを。それから」
 「それから?」
 「……ここの景色は荒涼としていて、あなたは地獄を案内するウェルギリウスみたいだなと」
 「お前は自分がダンテだと? 外見に反して意外にも自惚れが強いのか」
 男が胡乱げな目で呆れたように言うので私は思わずふふと笑った。

 「さあ、着いたぞ」
 男は芝居がかった緩慢な動作でこちらを振り返った。
 能面で隠した左側から振り向くものだから、それはもうほとんど小面が喋っているようなものだった。背の低い私から見ると能面はいわゆる「照ラス」という状態になって、かすかに愉悦を帯びる。細くゆるやかな曲面を描き、能面の中でも若い女性を表すというその生白い面が微笑んだように見えた。
 男が言う通り我々は博物館の建物へと到着したのだった。
 「静かですね」
 館内へと入り思わずそうこぼすと、革の手袋を脱ぎかけていた男が満足そうに「そうだろう」と朗笑した。手袋と外套は脱いでも能面を外すつもりはないらしい。
 男は脱いだものを乱雑に肘掛け椅子ーー博物館の『受付』であることを示すようにそこに置いてあるーーに投げると、今度は白いシャツの左胸のポケットから紙切れを一枚取り出して私の前にひらりと差し出した。招待券だ。「ありがとうございます」と言って私は両手でそれを受け取った。
 「早速案内しよう」と言って小面の男はまた私を先導するように歩き出す。
 基本的に彼は顔ににたりと貼りつけた笑みをあまり崩さなかった。

 最初の展示室にあったのはガラスケースの中に置かれた何かの関節の骨のようなものだった。別珍の敷かれた上に転がるそれは雲井鼠の色をして、表題には一言「不均衡」とある。
 私は「骨のように見えます。鳥類や魚類じゃない……哺乳類、かな」と演繹してみせた。
 「これはな、ヤマネコの距骨、くるぶしのところにある骨だ」と言う男の右手が緩やかに何かの拍子をとっているのを私は見つめた。
 「なぜこれが『不均衡』なんです」
 均衡のとれた三拍子。ラ・フォリア。頭の中で思いついた旋律を勝手にのせる。
 「羊などの偶蹄類の距骨は歪んではいるが立方体や直方体に近い。これは古代にアストラガロスと呼ばれ骰子として使われていた。対してヤマネコの距骨はアストラガロスほど四角くはない。見ての通りな」
 「そうですね、だいぶ歪だ」
 ラ・フォリアの旋律に歪なところなんてない。
 「フィロソフィアを示したかの哲学者はこれを称して半アストラガロスと呼んだ。半アストラガロスを骰子として使えば、結果は不均衡そのもの」
 「なるほど、それで不均衡」
 私は納得して頷いた。

 次の展示室は青白く照明を落とされており、戸惑う私に男は「上だ」と言った。
 目を凝らすと、そこにはまるで薄暮のプルキンエ現象の中に浮かぶ星のようなものが淡く瞬いていた。星。より正確に記すならそれは三十二本の放射状の線に囲まれた「131」という数字だった。どういった仕掛けなのか天井際のそこかしこに「131」が瞬いていた。
 「131。ソフィー・ジェルマン素数ですね」
 「そうだな。だが素数とは関係ない」と男はさやかに言った。
 「131とはこの消印が使われた場所の局番だ」
 「消印。消印とは手紙に押すあの?」
 男の方をちらと見ると彼も「星」を見上げていて射干玉の瞳に「星」の光が反射しているのだった。私は今度は思わず目を逸らした。
 「そうだ。これはブランズウィック・スター・キャンセルと呼ばれるスコット人の土地で使われた古い消印だ。この数字を取り囲む放射状の線がハノーバー朝ブランズウィックの紋章に似ているから『ブランズウィック・スター』」
 「星みたいだからって消印がなぜあんな星みたいに」と私が問うと、男は「星と名がつくのに夜空に浮かばないのは哀れだろう」と断定した。
 紙上に押印された本来は二次元的であるはずの黒い洋墨のしみがふよふよと紙の繊維から解き放たれ、空間に浮かび瞬いている。天象儀のようにその部屋は存在している。

 それから我々は数時間をかけて館内を観てまわった。
 石灰岩の巨大な墳墓を造り上げた人々が木乃伊を作る際に臓物をそれぞれ納めたというカノポスの壺や、怪鳥ハルピュイアがついばんだ葉の標本(これを聞いてやはり彼は地獄の案内人じゃないかと思った)。
 糸の絡まったオドラデクの剥製。最初に話を聞いた真珠の御喰出し。
 匂出来においでき の刃文が踊るすらりと反りの高い刀。その燃えるような重花丁子を拡大鏡で覗き込もうとした時、案内人は「刀の刃文の中にはこの世ならぬものの住処がある。覗く時は気をつけろ」と言った。
 またヤマネコの距骨「不均衡」のように本来目に見えないはずの概念が物体の形をとって展示されている例も数多くあった。「迂遠」「嘘」「思慮」と詩の表題のようなものが繰り返し現れた。

 展示室はどこも静かだった。寂寂として安寧で、改めてここには私とこの男しかいないのだった。そうして我々は最後の展示室に到着した。
 ひとつ「それで」と言って初めて私の方が振り返り、男と目線を合わせた。
 小面と共に男はまた少し愉快そうな顔で私を見下ろし「それで」と鸚鵡返しにした。
 どうしてこうなったのだろう。順番に考えようとしたが象棋の棋譜を読むようにはいかなかった。窮地のようでそうではないとも感じられた。
 「ここに入るのは私なんでしょうか」
 上擦ったわずかな高揚感と共に私が問うと男は空っぽの大きなガラス製展示ケースを目の前にして「そのつもりで案内した」と、こともなげに言った。「ちょうど良い展示物を探していたんだ」と。
 小面の両端から伸びる紫檀色の丸い面紐。きつく結われた子供の細い髪のように編み目が櫛比するその紐は面の固定のために男の後頭部で結ばれた後、余りはそのまま垂れ下がり、木の枝から地面に降りんとする蛇のごとく揺れている。
 「このような九鼎大呂を通りすがりの者に簡単に見せていただけるとはおかしいと思いました」
 嘆息し俯いてそう吐くと、男はさも楽しげに目を見開き「九鼎とは、大げさだな」と笑った。
 「本当は大げさだなんて思っていないのでしょう。ここのコレクションは本当に素晴らしいですよ。今まで見たどんな博物館よりも」
 息巻いて言った。嘘はない。男は私を一瞥し、それから空の展示ケースを見つめた。何ごとかを思考するもそれが男の声にのることはなく、唇の動きだけがわずかに言葉を形成したが私がそれを読み取ることはできなかった。
 やがて男はゆっくりと視線だけを私に戻すと、まるで飼っていた猫を惜しみ野に放つかというような顔をして言った。
 「お前のような愉快な客人を展翅板に刺し留めておく道理はない」
 「そう言っていただけるのは光栄ですが」
 「それにお前、生者ではないだろう」

 指摘されることで存在が定義される、というのはあるのかもしれない。あるいは。私は目を丸く見開いて男を凝視することとなった。指に血が通わず、空気は肺を循環せず、世界は反転し、私の身体は焔を失った炭のように文字通り崩れ始めた。
 「なぜ」と、震える声をしぼりだす。男は薄く笑ったまま、また右手で緩やかに何かの拍子をとり始めた。
 「となりの島の奴らは占術に通じていてな、そういうものには敏感なんだ。お前をここに寄越したのは厄介払いか、手に負えなかったんだろう」
 私は呆然としながらもとなりの島で出会った何人かの人々を記憶から呼び起こした。痩せて骨張った宿屋の主人や、それから道端で遊ぶ子供たちだ。
 「……生者でないというのは、それは」
 「自覚があるのか」
 最後まで言ってもいないのに男は得心してあははと笑う。
 「本当におかしなやつだな」
 「しかし厄介払いだとか手に負えないだとか、そんな悪霊か何かに見えます? 私が?」と、心外な推し当てに対し不満をこぼした。徐々に崩れていく身体は見ないふりをした。
 「いや、見えないが」と男は右の拳で口を押さえながらも大声で一頻り笑い、面白くてたまらないといった顔で「だが生者でもないだろ」と言い放った。
 きっぱりと断言され、それはもう反論の余地がない。男も小面も楽しげだった。私は「彼ら」を多少苦々しい顔で見つめた。磨かれた美しい木象嵌の床に我々を含め部屋のあらゆるものが反射して映り込んでいた。この男が磨いているのだろうか。あまり想像ができない。床に反射した小面が微笑んでいる。

 「俺の能面が気になるんだな」
 男はそう言うと両手で面紐の結び目に手をかけ、それをするするとほどいた。絡まった二本の紐に指を入れて直し、それから私の顔にそのままその小面を宛てがった。身体の崩壊はぴたりと止まり、私は逆再生のように再び人間らしい形を取り戻した。
 男がやっていたような顔の四半分を隠す形ではなく私の顔は真正面から小面で隠された。男は私の後頭部に勝手に手を回して面紐をきつくぎりぎりと結び、それから一言「二人も悪くない」と言った。
 遠く地謡じうたい が聞こえる。浅く嘆息して、まず桟橋を直そうと私は思った。

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