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会津・金川寺の八百比丘尼伝説と聖徳太子像

少し前に「note写仏部」部員になりました。

note上でやってる部活、写仏部です。仏様を写し描くことで内観や画業上達、日々の充実などを目指します。ゆる〜く活動中。我々は部員を募集中です。写仏やろうぜ!

「ゆる〜くやってます」というのは、近年の日本人の社交生活上、欠かせない枕詞みたいなもので、実際はあまりユルくないことが少なくないのですが、こちらもご多分に漏れず、部員の皆さん、日夜ハードに写仏していらっしゃいます??
部長は、以前「鳥文斎栄之ちょうぶんさいえいし展」の記事でご紹介したHimashunさん。
わたしは写真班員を仰せつかりまして、部員の方々が写仏するための写真を、気が向いたら撮ってくるのがお役目です。
「皆さん、気長にお待ちください~」
などとコメントしつつ、でも、ほら、実態はガチな部活動ですから、早速取材して参りました。
(いや、本当は、会津に脚を伸ばす機会があって、そのときたまたま出会った仏さまなんですけどね)
仏像写真は、先達の素晴らしい作品が数多く遺されていて、現在もその道のプロと呼べる写真家がいらっしゃるので、本来わたしの出る幕はないです。ただ、アラフィフの本気で楽しい部活動というのも、それはそれで悪くないかな、と。
世に知られる機会が比較的少ない、東北・福島の静かな仏さまを、今後も「気が向いたら」ご紹介していければと思っています。


さて。
会津盆地は喜多方市塩川町の県道をクルマで走っていたところ、「八百比丘尼像」にゆかりの寺との立て看板とすれ違いました。
いったん通り過ぎたものの、気になって戻ってみますと、小さな集落の中に古びたお堂と立派なお寺の屋根が見えます。
金川寺きんせんじ
というそうです。曹洞宗のお寺です。

人魚の肉を食べて不老長寿を得た八百比丘尼(「やおびくに」または「はっぴゃくびくに」とも)の伝説は、全国各地に残されており、中でも若狭地方がもっとも有名でしょうか。
安倍晴明を描いた岡野玲子氏のマンガ『陰陽師』でも、八百比丘尼は物語の鍵を握る重要人物として登場します。

金川寺は、江戸期の『新編会津風土記』によれば、若狭国小浜からきた老比丘尼が開いたらしいのですが、お寺でいただいた由来書の内容は、それとはだいぶ異なっていました。
由来書に書かれた伝承を順に追っていくと、
○文武天皇の御代に、讒言によって磐梯山麓に流された秦勝道はたのかつどうという者がいた。
○勝道は、庚申講で出会った老翁に誘われるまま、川の淵深くにある竜宮城を訪れた。
○饗応を受け、土産の品として 九穴くけつの貝という珍品を持ち帰ったところ、娘が誤ってそれを食した。
○娘はやがて天才博識かつ美貌の尼となった。
○後嵯峨天皇の御代(鎌倉時代であり、飛鳥時代末の文武帝からは500年以上が経過)、流行した疱瘡を勝道の娘が祈祷で鎮圧し、その功により紫衣を賜って故郷に戻った。
○父母の菩提を弔うため金川寺を建て、阿弥陀如来像・聖徳太子像・自らの像を彫ったのち、村人に信心を勧めた。
とされています。
勝道の娘がその後どうなったかは、由来書には記載がありませんでしたが、今でも毎年5月2日に大祭が催され、比丘尼像や生前の比丘尼が使っていたとされる身の回りの品々が公開されるのだそうです。
首からカメラを提げて境内を散策していたわたしにご住職が気づかれて、由緒を説明くださり、本堂内部も案内してくださいました。
比丘尼像は、どうやら江戸時代に制作されたものとのこと。写真を拝見すると、極彩色の僧衣が鮮やかです(上記のトラベルjpのリンク先で見ることができます)。
寺宝の福島県重要文化財「木造聖徳太子立像」と喜多方市指定文化財「木造地蔵菩薩立像」はさらに歴史を遡り、前者は鎌倉時代後期、後者は室町時代前期の作。
前置きが長くなってしまいました。
太子像の怖いくらい引き締まったご尊顔に惹かれるものがあり、掲載いたします。

(許可を得て撮影)

寺院には鎌倉時代後期に制作された聖徳太子像が伝わっている。頭髪は角髪に結い、両手で柄香炉を捧げ持ち(※)、袍、袈裟を着て右肩に横被をかけ、正面を向いて立つ。この姿は、太子の事績を年齢順に記した伝記『聖徳太子伝暦』にある、病に伏した父用明天皇の快復を願い祈請する16歳の太子の姿を表したもので、「聖徳太子孝養像」と呼ばれる。太子2歳の時に東を向いて「南無仏」と唱えたときの姿(南無仏太子)と並び、絵画・彫刻ともに造像が盛んに行われた。その表現や構造、カツラ材を用いることから、鎌倉時代後期に在地の仏師によって制作されたものと考えられている。会津ではこの時季から聖徳太子像の造立が活発になるが、その最初期の遺品として挙げられる。

出典:じゃらんネット https://www.jalan.net/kankou/spt_07208ag2139719226/
※筆者注:柄香炉自体は失われている。

ガラスケースに納められていたため、灯明が反射していますが、写真としては雰囲気が出たかと思います。
ただし、仏画の題材に向いているかどうかは微妙かも。
そもそも「仏像」ではないし…。


以上で、金川寺の八百比丘尼伝説と聖徳太子像の紹介は終わります。
最後にわたし的に気になる符号を少し。

由来書にあった流人・秦勝道は、秦河勝はたのかわかつ(川勝)の三代の孫とされ、秦河勝はご存じのとおり、聖徳太子の側近として当時の政治経済の中枢に関与した秦氏の族長です。渡来人系の秦氏は、仏教にも造詣が深く、河勝は京都・太の広隆寺を建立したことでも知られます。
また、伝承によれば河勝は、推古天皇の御代に、初瀬川の上流から壺に籠められたまま流れてきて、拾い上げてみると中から赤ん坊が現れ、
「自分は秦の始皇帝の生まれ変わりである。急いでそのことを朝廷に報告するように」
と喋ったとされます。
秦の始皇帝と言えば、不老不死を渇望し、命を受けた徐福が船団を率いて日本列島に渡り、そのまま戻らなかったことが伝説として語り継がれています(日本の王になったとも)。
由来書において、秦勝道が、海のない会津地方で竜宮城に潜ったことは、やや不自然な筋立てにも思えますが、しばらく前にnote記事で書いたように、磐梯山麓には龍ヶ沢湧水りゅうがさわゆうすいと名づけられた清水があり、すぐ近くの慧日寺えにちじは、平安時代初期にはすでに開山されていたことがわかっています。
活火山である磐梯山周辺は、水脈と火脈、すなわち陰と陽が交わる地とも考えられそうです。

金川寺の八百比丘尼伝説は、八百比丘尼の物語としてはオーソドックスな形式に則っている一方、別の側面では、始皇帝の不老不死願望や太子信仰、陰陽道や地母神崇拝とも結びつきながら、思いのほか複雑な様相を呈していると感じました。

会津盆地には春の雪解け水が流れる。

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