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マントヴァ美術散歩 ─ドゥカーレ宮殿─
マンテーニャの『結婚の間』
マントヴァの歴史は、その他のイタリアの都市と同じく古代ローマ時代に遡ります。11世紀の「ロトンダ」やバロック期の「学術劇場」など様々な時代の発展の跡が残っていますが、ルネサンス期のマントヴァを支配していたゴンザーガ家により、それまでの既存建築物に改装が加えられていきました。
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ゴンザーガ家の居住ドゥカーレ宮殿は、各時代のそれぞれの公爵たちが自身の権力誇示と芸術作品のための翼を増築し続けた結果、なんと35,000平方メートルを超える面積になりました。内部は500以上の部屋、7つの庭園と8つの中庭があります(現在は博物館・美術館です)。
これは、ヴァチカン宮殿、ルーヴル宮殿、ヴェルサイユ宮殿、カゼルタ宮殿、ヴェナーリア王宮、バッキンガム宮殿、フォンテーヌブロー城、ストックホルム王宮などに次ぐ、ヨーロッパ最大級の大きな宮殿の一つということになります。
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クーポラの右側に黒く見えるのが、ドゥカーレ宮殿の一部サン・ジョルジョ城
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イザベッラ・デステがいた頃、レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノを追われ、マントヴァのドゥカーレ宮殿に身を寄せていたことでも有名ですね。
内部は見どころが多すぎて、とても書ききれませんが、ギリシャ時代の彫像(紀元前4世紀頃のローマンコピー)が飾られている大広間は印象的でした。
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ここで一番見るべき作品は、やはりマンテーニャの『夫婦の間』でしょう。
ゴンザーガ家のルドヴィーコ三世の依頼により、1465年から1474年に渡って描かれました。
今は夫婦の間と呼ばれていますが、この部屋はもともと、謁見の間(公務をこなす場所)と家族と会う部屋(寝室)という2つの機能があったようです。
この部屋の素晴らしさは、当時としては最新のアイディアである「家族の肖像や一家の出来事を''宗教画の一部''としてではなく、そのままの姿でリアルな肖像画として描いた」ことです。
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それ故に、元々は『絵画の間 / 描かれた部屋 』とも呼ばれていました。
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当時の宮廷人はさぞかしビックリしてこの部屋を眺めたことでしょう。
マントヴァはレオナルド・ダ・ヴィンチを魅了したほどの馬の産地でもあります。ゴンザーガ家も名馬を所有して自慢だったのでしょうね。マンテーニャの筆による美しい馬が描かれていました。
マンテーニャの『夫婦の間』といえば天井画も有名。
古代ローマに憧れていたマンテーニャらしくパンテオンを模したドームになっています。
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この空が、明るいイタリアの空の色だなと思って眺めていました。
黒人の召使と侍女たち、天使たち、孔雀(キリスト教の象徴ではなく、ゴンザーガ家の宮廷で飼われていた珍しい動物として描かれた)が目に入ります。
よく見ると、女性たちは下から見上げる者を嘲笑ってるかのような表情です。また、今にも桶(花瓶?)が落ちそうになっていたり、お尻をこちら側に無造作に向けている天使もいます。
ガイドの説明では、一人の天使が鑑賞者に向かって放尿しているとも言っていましたが、それはよく見えませんでした・・・なんとなくそんな感じもしますが(笑)
現代的に見れば、少々「下品」な雰囲気を醸し出しているように思う絵ですが、これが当時の宮廷人の好みだったようです。
こうしたジョークや絵の中のふざけた演出を、宴会の席などで笑って楽しんでいたのでしょう。
それをいかに技巧的に演出するかが、ルネサンス期の画家の腕や想像力にかかっていたのだろうと思うと、マンテーニャの絵の素晴らしさに感動も更に深まるのでした。
この『夫婦の間』のどこにもマンテーニャのサインはないのですが、ちゃっかり自画像を描いていて、鑑賞者たちは「彼のサインはどこにあるんだろう?」と部屋の中を見回す遊びに興じることになります。
そして、やっと見つけた時の喜び。
今もここを訪れた観光客たちが同じことをして楽しんでいますが、そうした遊び心を当時の宮廷人たちも愛していたのではないかと思います。
それにしても、マンテーニは本当にこんなイカつい顔をしていたのでしょうか?
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そして、ルネサンス期の宮廷にはたくさんの小人症の人たちがいましたが、マントヴァ宮廷にも、もちろん存在していました。
その中の一人がゴンザーガ家の家族の肖像に交じって描かれているのも印象的だと思います。
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ゴンザーガ侯爵の妃バルバラの足元にいるルチーア(ちゃんと名前まで残っています)、 彼女だけが肖像画の中でじっとこちらを見つめるようにして立っていて、鑑賞者を絵の中に引き寄せようとしているようです。
また、ルドヴィーコ三世の椅子の下には「忠誠の象徴」である彼の愛犬ルビーノが横たわっています。
『結婚の間』のこの場面が、一体何を意味しているのか、今もはっきり分かっていません。
いくつかの説があり、ゴンザーガ家の息子フランチェスコが枢機卿になった知らせをローマから受け取った瞬間とか、ルドヴィーコ三世が手にした手紙は、ミラノ公爵夫人ビアンカ・マリア・ヴィスコンティが、夫ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの容態悪化を理由に、ミラノ軍司令官ルドヴィーコに緊急招集を出したものとも言われています。
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最近の研究によると、右側の階段に並ぶ廷臣たちはスフォルツァ家の若者たち(ミラノの流行服とタイツの色で判別)ではないかとのこと・・・
ミラノ公の息子であるガレアッツォ・マリア・スフォルツァを描いた写本には右足に白タイツ、左足に赤タイツをはいていて、彼に仕えるスフォルツァ家の臣下は、この色のタイツをはいて他家と差別化していたというのです。
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ルドヴィーコ三世の死後、この部屋は貴重品の保管室として使用され、そのまま忘れ去られていきました。19世紀までの修復情報も曖昧でほとんど残っていないようで、この部屋はほぼ放置状態でした。
その後、やっと本格的な修復が始まったのは、1987年になってからです。
しかし、覚えていらっしゃる方もいるかと思いますが、2012年にこの地域で発生した地震により、古い亀裂が再び開いたり、塗装された漆喰の一部が剥がれ落ちたりの被害がありました。
2014年、耐震性を備えた修復が開始され、1年間の作業を経て、2015年から一般に再公開されています。